映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「ブレードランナー ファイナル・カット」監督リドリー・スコット at 109シネマズ箕面

www.cinra.net

 IMAXシアターで鑑賞。1982年の最初のヴァージョンしか観ておらず、その後何回か改変を経ている筈だが、さほどこの作品に入れ込んではいないのでその変遷は専門家のサイトを参照してもらう。

www.thecinema.jp

 入れ込んでいないのに何故箕面まで観に行ったのかというと、最近つくづくアメリカ映画と日本映画は20世紀までだったなという思いを抱いているからだ。フィルム信奉というより映画づくりのシステムがあの頃までがまだ何とかなっていた、と。「地獄の黙示録」と「太陽を盗んだ男」が1979年、「ツィゴイネルワイゼン」が1980年、「天国の門」が1981年、そしてこれがその翌年。「乱」は1985年か。深淵なる人間の闇の奥を描くことの狂気に憑かれた映画監督が創作出来た最後の時代だろう。

 2019年の今年の世界である「ブレードランナー」、ここに映るパンナムTDKも今はもう無い、流石に車はまだ空を飛んでいない、携帯電話は登場しない、などを論うのはお門違いだろう。ここにリドリー・スコットの「世界」がある、そのデザインセンスをのみ讃えたい。どこがファイナル・カットなのかマニアではないので良くわからなかったが、エンディングは初公開時と違ってたような。

「帰れない二人」監督ジャ・ジャンクー at 新宿武蔵野館

www.imdb.com

 中国語原題は「江湖兒女」英語タイトルが"Ash Is Purest White"(灰は純白)そして邦題が「帰れない二人」。中国語原題は江湖(生まれ)の少女、という直訳ではなく転じた意味があるようでジャ・ジャンクー監督の言葉によると江湖というのは大衆というか、現代中国社会全体のことであり、兒女は男女の情念のような意味とのこと。江湖はWikiによると官に対する民間、世間一般という意味らしい。

 2001年から2018年までの一人の山西省出身の女の行き方を描く。例によって女はチャオ・タオ。役名まで同じだ。民間の人だが市井の人、ではない。字幕では渡世、渡世人となっているがヤクザの女だ。ビン(リャオ・ファン)が仕切る麻雀荘がアジト。賭博よりは闇金融シノギのようだ。チャオに拳銃の撃ち方を教えるビン。時代は好景気らしく、ディスコのダンスは見事なキャメラワーク。「ロケットマン」より断然こっちの方がカッコいい。そのディスコの床に落ちる拳銃。この拳銃が二人の運命を分かつ。対立組織に襲われるビン。その直前にチャオの絶頂の地位を暗示させるわがままぶりが良い。ドアガラスを突き破るビンの拳。ビンの格闘は北野武を想起させる。そういえばこれまでジャ・ジャンクー作品の冒頭にはオフィス北野のロゴがあったのに今回は無い。北野武へのオマージュが感じられるのはある種必然かもしれない。チャオの発砲、嗚呼「緋牡丹博徒」だ、もうスタイリッシュ過ぎて恍惚としてしまう。日本のヤクザ映画へのオマージュはここまでで、この事件で逮捕されて服役した二人は5年後再開、ビンの居場所を探してやっとこ辿り着いたチャオはビンの今の女と対面する。なんと成瀬の「浮雲」('55)じゃないかこれ。小さな携帯電話、巨大な火力発電所。2006年の中国社会が二人の背景に流れる。

 「浮雲」の流れは続き、「浮雲」とは逆に男の方が患う。脳出血で半身麻痺となるビンは捨てたはずのチャオを頼る。2018年携帯電話はスマートフォンになり、ナビで道案内。歩けないビンは時代に苛立つのか若衆の作った食事を蹴散らし、礼儀知らずと罵る。時代に完全に取り残されてしまった男。叱りつけるチャオ、かつてのアジトには監視カメラ。如何しようもない男と女を監視カメラは見詰める。現代中国版「浮雲」の顛末はほろ苦い。帰れない二人、はまた、戻れない二人である。

 ジャ・ジャンクーの映画が大好きで、今回も愛おしい。UFOの件はこの人らしさが横溢、リアリズムがシュールに跳ぶ瞬間を見る事が出来て嬉しい。チャオ・タオの格好良さには惚れ惚れする。佳作、お勧め。

 

浮雲

浮雲

 

 

 

 

「ロケットマン」監督デクスター・フレッチャー at TOHOシネマズ新宿

www.paramount.co.uk  デクスター・フレッチャー監督は「ボヘミアン・ラプソティー」で途中から監督になった人。いろんな事情があったことは察するに余りある。で、続いて間隔を置かず実在の、しかも現存のアーチスト、エルトン・ジョンの半生を描くと。製作事情としては「ボヘミアン‥」と地続きであることは想像がつく。

 ロックスター、いやロックに限らない音楽スターの人生を描く映画というのはパターンが決まっていて、下積み→成功→酒色に溺れ→ほどなくクスリに手を出しどん底へ→やっと見つけた真実の愛→復活、という方程式が大体当て嵌まる。この流れのどこかに昔からのバンドメンバーと仲違い、というのが入る。本作もその域を出ない。裏切らない。

 冒頭断酒なのかクスリ断ちなのか、そういうセミナーに現れるエルトン・ジョン(タロン・エガートン)の生い立ちの回顧から物語は始まる。音感に優れ、ピアノは天才的だった。しかし彼を押さえつけ続けたのは軍人出身の父親。息子に無関心、私物のレコードに触ると叱りつける。エルトンにとってこの人物が何故にそこまで深くネガティヴな影響を与えたのかは他人には窺い知れない。ともあれゲイであることを自覚、音楽制作のパートナーであるバーニー(ジェイミー"リトル・ダンサー"ベル)に片思い。面白いのはエルトンはあっという間に売れっ子になるのだが、自分が手に入れたい愛に対して、とても臆病であること。父親から否定され続けた存在であったことが影響して、音楽の才能以外の自己評価は低いのだ。このか弱き自己を守るための偽りの自分からの解放がこの後彼自身の生きるテーマであるように描かれる。が、お決まりの酒とクスリ、生きているのが不思議なくらいの猛烈な量だ。そして見る幻影は自分の子供時代。本当にそうならそうなのだろうが、映画的には凡庸。ま、それで色々あったが偽りの自分からの解放を果たしました、というラスト。ところどころ挟まれるミュージカルの群舞は撮り方のせいなのかダンスの質なのか平凡で既視感に溢れ躍動感に欠ける。同じく自己の人生を省みるボブ・フォッシー監督「オール・ザット・ジャズ」('79)は偉大だったとあらためて。

エルトン・ジョン、素晴らしい才能であることは間違いない。長生きして下さい、ってとこか。

 

 

「白昼堂々」監督・野村芳太郎 at 神保町シアター

 

あの頃映画 「白昼堂々」 [DVD]

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 野村芳太郎監督特集の一本、1968年松竹作品。

寅さん誕生前夜の渥美清倍賞千恵子更に佐藤蛾次郎。'68年当時には北九州の炭鉱は既に廃れていたことが分かる。廃坑の周りに住む「泥棒部落」の人々。スリと万引きで糊口をしのぐ集団を「組合」と呼びそのリーダーが渥美清。警察アレルギーで警官や刑事が近づくと蕁麻疹が出る。が、あんまりギャグとしては効いていない。のちの寅さんに比べると硬い動きの渥美清。その昔のスリ仲間に藤岡琢也大阪弁丸出しの藤岡と、時々江戸弁に戻ってしまう渥美清の九州弁。藤岡は足を洗ってデパートで万引きを捕まえる方に回っているが渥美との縁が切れず、万引き軍団の盗品の故買に手を貸す。このデパートでの万引きロケが凄い。今では絶対不可能。外観だけだが当時の小田急、阪急、丸井、伊勢丹が出て来る。

 テンポよく物語は進み、寅さんに於けるさくらと正反対のワリキリ女の倍賞千恵子に惚れてしまうのが渥美。ここはプロセス端折り過ぎで、え、そんな好きだったの?と唐突な運びだがあっという間に夫婦になる。が、この元祖「万引き家族」は熱血刑事有島一郎の奮闘で瓦解に向かう。有島の妻に小津組でいつも天然な女将さん役の高橋とよ。このとよさんが「最近は夜の方もさっぱり」と毒づいて笑わせる。結局藤岡は渥美の犯罪に加担して御用。逮捕現場ロケ地は新宿伊勢丹。後日談の刑務所風景がオマケのようにあっておしまい。

 食い詰めた炭鉱夫達が生活の為に疑似家族となって万引き行脚。是枝さん、この映画ヒントにしたんじゃなかろうか。

「ココロ、オドル」監督・岸本司 at 第七藝術劇場

twitter.com

www.cinematoday.jp  沖縄、座間味村という大変海の美しい村が舞台。出演の仁科貴から直接聞いたが、本編の自分の出番の撮影日数より海中撮影の日数の方が長かったそうだ。登場人物の一人、いつも不機嫌なフランス人がこの海に潜った途端に性格が良くなるというエピソードがあるのだが、さもありなんである。

 沖縄が舞台の映画というのは作り手と土地との距離感が難しい。本作の岸本監督は名護市出身で沖縄で映像を撮り続けているそうなのだが、先述のフランス人と加藤雅也扮する船大工を沖縄以外の人間に設定している事でバランスを取っている。あるいは地元の警察官が旧知の仲間内の人間を逮捕するのを躊躇したり、また周りの人間がそれを推奨しているかのような身内意識は独特である。フランス人カメラマンのフィアンセである沖縄にルーツを持つ米国人女性の妊娠におばあが気がつかないで便秘だと思う描写は首を傾げるが、蒸発した母を恋しがる娘が姉のように慕う女性に思わず抱きつく繊細さは秀逸。加藤雅也の内省から来る非暴力主義も何かと血気盛んな島の男達へのアンチテーゼとなっている。とまれ、座間味というところに行ってみたくなる。

 上映後、仁科貴の舞台挨拶。

「工作 黒金星と呼ばれた男」監督ユン・ジョンビン at 元町映画館

kosaku-movie.com  キネマ旬報7月下旬号のユン・ジョンビン監督のインタビューによると「100%事実、とは言えないが無かったことを作り上げた部分は無い」とのこと。そう言われると俄然面白さが増す。

 ことの発端は1992年、北朝鮮が核開発しているのではとの疑念を抱いた韓国政府直属の国家安全企画部が、ある軍人をビジネスマンとして北側と接触、核開発の証拠を掴もうとする。パク(ファン・ジョンミン)は有能な軍人だった事もあり、北側の商品を買い付ける商社の男になりきる。やがて本丸である北の要人にコンタクトを取ることに成功。パクは外貨不足で金が喉から手が出るほど欲しい北側に、北朝鮮景勝地で韓国の商品のCM撮影をする、という企画を提案。北側のリ所長(イ・ソンミン)は何と最高指導者金正日にパクを引き合わせ、直接企画を提案させる。

 こんな事が本当にあったのかとあまりの奇想天外な展開だが、金正日と言えば韓国の映画監督夫妻を拉致して怪獣映画をつくらせた男である。金王朝のお坊っちゃまなら然もありなんなのかも知れない。この映画が面白い理由は派手なアクションを排除し(つまり、そんな事はなかった)、ひたすらに交渉に徹するリアリティにある。ジャンルとしてのスパイ映画とは一線を画する。

 平壌潜入に成功したパクは、北朝鮮の悲惨な人権状況も目撃、高官達が必ずしも金王朝に忠誠を誓っている訳では無いことを知る。この辺の描写は新鮮だし、北朝鮮の国内の描写(台湾でロケセット撮影したらしい)も精緻だ。

 一方、韓国国内の事情の方が劇的に変化して行く。大統領選挙を巡って安企部はこの北の核武装疑惑の潜入捜査が邪魔になって来る。大局ではなく喫緊の利権事情を優先してしまうのだ。なるほどこの辺りの描写は昨今の日韓関係に照らし合わせると韓国政府の気質がよく分かる。馬鹿正直な正義論で彼らは動かない。善悪論ではなく、テーブルの上で罵り合って、その下で握手するというタフな建前と本音の使い分けこそが外交なのだ。ニッポン外交はあまりに純真なサムライなのかも知れない。

 映画のラスト、そう言えばこういう南北のモデルの共演ってニュースを見た事あるな、と思ったらこれ

www.wowkorea.jp

japanese.joins.com

そうか。そうだったのか。そしてこのCM撮影の現場でパクとリ課長の再会が本作の見どころ。ここは事実であれどうであれ見事に「映画」になっている。ある種理想主義的な終わり方であり、いつかは統一、という建前としての悲願と今も続く南北分断(のままで良い)という本音へのこの映画の作り手からの異議申し立て、と見た。

 今の日本の内政問題として「新聞記者」外交問題としてこの「工作」、必見。

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「凪待ち」監督・白石和彌 at TOHOシネマズ新宿

nagimachi.com  本作は阪本順治監督・稲垣吾郎主演の「半世界」と同じ椎井友紀子P、これと草彅剛主演の「まく子」が今年になって立て続けに公開されているのは偶然ではないと思われる。恐らく元SMAPの三人それぞれの活動の場として映画が「仕掛けられた」のであろう。それ故「半世界」と同じくオリジナルシナリオ(加藤正人)という「冒険」も可能にさせたのだと思う。

 川崎の、吹き溜まりのような飲み屋で競輪談義をする郁男という名の男を香取慎吾が演じる。図体が大きい、細くないがっしりとした体躯でのっそりのっそり歩き、何を考えている風でもなくぼんやりとしている。妻、と見えた女・亜弓(西田尚美)は妻ではなく、その娘・美波(恒松祐里)と共に郁男は棲んでいる。この籍を入れていない家族に見えて家族ではないという設定が本作の仕掛けの第一。「マンチェスター・バイ・ザ・シー」('17)の線かな、と思ったらキネマ旬報6月下旬号の特集によると加藤正人氏の口からこの映画のタイトルが語られていた。また、白石和彌監督の出自も深く影響していることがわかった。

 妻の実家のある石巻に移り住んでから物語は動き始める。ここに妻の親という家族が登場するが震災が深く影響しており、残されていたのは癌に冒された父親(吉澤健)ひとり。この家にまるで親族のように上がりこんでいる面倒見の良い近所の氷屋(リリーフランキー)。氷屋は郁男に仕事を斡旋するが、職場で知り合った男から競輪のノミ屋を紹介されて、彼は川崎で止めた筈の競輪博打に再び手を染める。郁男を捉えるスクエアな画面が反時計回りにゆっくりと回り始めるとそれは中毒の発症であるという単純だが秀逸な演出。あるきっかけで美波は家を飛び出し、美波を探す亜弓と郁男は教育方針を巡って口論となり、別行動を取る。郁男が美波を見つける。幼馴染の男と一緒だった。ここで郁男が幼馴染にかますパンチで郁男の人生の来し方が想像される。何か溟い事をやって来た筈の男のパンチである。美波は母・亜弓に電話をする。ここがゾッとする演出の巧さ、少し前の亜弓の台詞「娘が通り魔にでもあったら」が効いている。

 ここから先は具体的に書かない方がこれから観る人の為だ。郁男は心の弱さを隠さない男である。周りの人々は亜弓の父親を含め、とことんだらしない彼に優しいのは何故か。亜弓の元夫も当初はいやらしい男として登場するが、やがて新しい家族を得て改心したように描かれている。他人への優しさ、改心。その原因はあの震災であることは想像に難くない。喪われた家族への生き残った者の想い、生きていることを大事にしたい人々。

 怒涛の伏線の回収の後、ラストは圧巻だった、このラストが描きたくて逆算して練られた脚本だと思った。前述のキネ旬の記事によると加藤氏が決定稿でカットしたこのエンディングを白石監督が復活させて撮ったとのこと。亜弓の父親役の吉澤健が素晴らしい名演。傑作、必見。