映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「硫黄島からの手紙」監督クリント・イーストウッド at 109シネマズHAT神戸

父親たちの星条旗」に続く硫黄島二部作、日本篇。
現在の硫黄島の遺骨遺品発掘の様子から始まり、程なく1944年へと遡る。大宮でパン屋をやっていたという西郷という二等兵(二宮和也)の、手紙を読むような独白、そして海岸で穴を掘る彼の全身をぐるっと回り込むように捉えるキャメラ。兵士というには幼い顔であり、現代的だ。そう彼はジャニーズの男の子なのだ。言葉遣いも埼玉県出身というより、今の子そのままだ。そこで思う。彼は現代、こうしてこの映画を観ている戦争を知らない私達のメタファーなのだと。この、敢えてリアリズムから外した演出の仕掛けは有効で、即座に緊張を強いる。分り易い暴力的精神主義の固まりのような「リアルな」上官によって。そしてこの西郷という現代の我々にとって最も身近に見える存在を通して、ここから始まる地獄巡りは描かれるのだ。更には硫黄島に降り立つ、栗林中将(渡辺謙)の、腰に提げられた米国製拳銃の鮮やかに白いアイボリーグリップが、この将軍の特異性を知らせる。尤も、その米国製拳銃を提げている理由はすぐ後に説明されてしまうのだが。
 この映画で描かれる人間の死は、米国兵を除いて、直接的であれ間接的であれ全て「自殺行為」だ。
日本軍は前作「父親たちの星条旗」によって知られる、米軍に与えた甚大な被害の裏で、ひたすらに自殺へと突き進んでいたのだ。イーストウッドはその表現に於いて、一切逃げない。キャメラを逸らさない。そして理解もない代わりに批判もない。脱走し、捕虜となった者に対しても、慈悲はなく、救いはない。この絶望的状況を、太陽の光が一切差さない、うんざりするような暗闇だけの中で繰り返し繰り返し積み重ねて行く。前作に比べると映画全体の構成は単純で、その分悲惨さは際立っている。
一体、このしつこさはどこから来るのだろう。 
映画を、従来型のショービジネスとして捉えているのならこの映画の、この内容は存在しない筈だ。一体誰が真っ暗闇の中で自殺し続ける日本兵達の映画を観るのか…そう思うプロデューサーはむしろ自然だろう。が、イーストウッドは2時間半の間一切カタルシスの無い、正義も無ければサクセスも無い映画を2本もつくってしまった。歴史と、民族と、人間の有り様を予断なく「ありのまま」に描くこと、それこそが映画の生き残る道であり、ひいては観る人々の生き残る道でもあることを彼=マエストロ・イーストウッドは大変な労力を以てここに示した。これはそういう意味で全く新しい映画である。だから、こんなのは映画ではないという人がいても不思議ではないと思う。
昨夜はこの映画がリフレインしてよく眠れなかった。が、まだ観ぬ人はそれを覚悟してでもこの映画を観るべきだ。必見。


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