映画的日乗

映画、食、人。西に東に。

「バベル」監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ at 109シネマズHAT神戸。

一丁のライフル銃がもたらす、不運と不幸の連鎖。
モロッコの山岳地帯、カリフォルニアの富裕層家庭、メキシコの貧困層家庭、そして東京、高層マンションに住む孤独な親子。彼らのたった一昼夜と夜明けを時差と時空を交差させながら見せる。イニャリトゥ監督は、前作「21グラム」('03)でこれでもかとキャメラを振り回し細かくカットを刻んでいたのに対し、今回は幾分ゆったりとした見せ方をする。その真意はこの映画が言葉についての映画であり、言葉を聞かせることを肝要としたからであろう。
原住民のモロッコ語とブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット夫妻の英語、彼らを批判するバス観光客のフランス語、気の良いメキシコの連中のスペイン語、それを厳しく臨検する国境警備隊の英語。
言葉が異なることで生じる誤解といらだちから至る不寛容は、ある登場人物の決定的なキャラクターが象徴する。それは聾唖の高校生、チエコ(菊池凛子)だ。コミュニケーションの不全の象徴であり、それでも愛というコミュニケーションの理想郷を求めて、彼女は下着を取り、服を脱ぐ。愛し方のわからない彼女の、この不器用な提示が若い刑事によって受け入れられる瞬間は感動的。同じく、礼金を受け取らないモロッコ人通訳、アメリカ人夫婦の和解、チエコと父(役所広司)の手と手、が寛容という名の希望として示される。
だが。
アメリカがメキシコを見下し、差別し、実際に国境警備隊はあのように横暴なのかも知れないが、この両者の階級闘争だけが「終わらない現実としての不寛容」として強調され、この国がアメリカの被害者であると意識させるのは…メキシコ人イニャリトゥ監督の矜持なのだろうが、映画全体のバランスを欠く結果となっている。
とまれ、腕力でねじふせるかのような演出ぶりは見応えあり。