映画的日乗

映画、食、人。西に東に。

「凪待ち」監督・白石和彌 at TOHOシネマズ新宿

nagimachi.com  本作は阪本順治監督・稲垣吾郎主演の「半世界」と同じ椎井友紀子P、これと草彅剛主演の「まく子」が今年になって立て続けに公開されているのは偶然ではないと思われる。恐らく元SMAPの三人それぞれの活動の場として映画が「仕掛けられた」のであろう。それ故「半世界」と同じくオリジナルシナリオ(加藤正人)という「冒険」も可能にさせたのだと思う。

 川崎の、吹き溜まりのような飲み屋で競輪談義をする郁男という名の男を香取慎吾が演じる。図体が大きい、細くないがっしりとした体躯でのっそりのっそり歩き、何を考えている風でもなくぼんやりとしている。妻、と見えた女・亜弓(西田尚美)は妻ではなく、その娘・美波(恒松祐里)と共に郁男は棲んでいる。この籍を入れていない家族に見えて家族ではないという設定が本作の仕掛けの第一。「マンチェスター・バイ・ザ・シー」('17)の線かな、と思ったらキネマ旬報6月下旬号の特集によると加藤正人氏の口からこの映画のタイトルが語られていた。また、白石和彌監督の出自も深く影響していることがわかった。

 妻の実家のある石巻に移り住んでから物語は動き始める。ここに妻の親という家族が登場するが震災が深く影響しており、残されていたのは癌に冒された父親(吉澤健)ひとり。この家にまるで親族のように上がりこんでいる面倒見の良い近所の氷屋(リリーフランキー)。氷屋は郁男に仕事を斡旋するが、職場で知り合った男から競輪のノミ屋を紹介されて、彼は川崎で止めた筈の競輪博打に再び手を染める。郁男を捉えるスクエアな画面が反時計回りにゆっくりと回り始めるとそれは中毒の発症であるという単純だが秀逸な演出。あるきっかけで美波は家を飛び出し、美波を探す亜弓と郁男は教育方針を巡って口論となり、別行動を取る。郁男が美波を見つける。幼馴染の男と一緒だった。ここで郁男が幼馴染にかますパンチで郁男の人生の来し方が想像される。何か溟い事をやって来た筈の男のパンチである。美波は母・亜弓に電話をする。ここがゾッとする演出の巧さ、少し前の亜弓の台詞「娘が通り魔にでもあったら」が効いている。

 ここから先は具体的に書かない方がこれから観る人の為だ。郁男は心の弱さを隠さない男である。周りの人々は亜弓の父親を含め、とことんだらしない彼に優しいのは何故か。亜弓の元夫も当初はいやらしい男として登場するが、やがて新しい家族を得て改心したように描かれている。他人への優しさ、改心。その原因はあの震災であることは想像に難くない。喪われた家族への生き残った者の想い、生きていることを大事にしたい人々。

 怒涛の伏線の回収の後、ラストは圧巻だった、このラストが描きたくて逆算して練られた脚本だと思った。前述のキネ旬の記事によると加藤氏が決定稿でカットしたこのエンディングを白石監督が復活させて撮ったとのこと。亜弓の父親役の吉澤健が素晴らしい名演。傑作、必見。