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www.imdb.com 出来るだけその新作を公開初日に劇場に駆けつける事にしている監督はイーストウッドとこのダルデンヌ兄弟だけだ。かつてはフランソワ・オゾンもそうだったが、最近はそうでもない。あと一人、奇跡が起きて長谷川和彦が新作を作ったら話は別だが。
さてダルデンヌ兄弟昨年度カンヌ監督賞受賞作は、イスラム過激派に傾倒する十代の少年が主人公。ベルギーに移住したアラブ系のファミリー、一世はネイティブアラビア語だが二世世代はフランス語、少年は必死でアラビア語でコーランを暗喩しようとしている。近所のハラル食料品店のあんちゃんが少年を感化させていて、少年が通う学校(塾のようにも見える)の担任の女性教師が反イスラム的だと吹き込む。信じ込んだ少年は先生をナイフで刺そうとするが失敗。技能研修が受けられる少年院へと送られる。一方、食料品店のあんちゃんはネットの中の導師の影響だと言って責任逃れをする。
加害者と被害者の再会、は「息子のまなざし」('02)と同じだ。あれも少年院を出た少年が被害者の父親の木工作業場に送られる話だった。本作は「息子のまなざし」に撮り方も似ていて、少年の背後から貼り付くようにキャメラが追いかける。少年の頑なな思い込みが溶解する事はない。それが個人の復讐でも憎悪でもない殺意であるところが恐ろしい。
キネマ旬報6月下旬号のダルデンヌ兄弟のインタビューによると彼らはカソリック信仰を自分の中から締め出した、と語っているのは衝撃だった。更にカソリックのユダヤ教への憎悪を非難している。重要なのは本作がイスラム教への攻撃を注意深く避けている点。少年に狙われる教師は客観的には決して反イスラムではない。
乳牛を飼育する作業場で少年は白人の、彼にとって異教徒の少女に出会う。この少女が彼の心に波風を立たせる。人間としての素直な感情と、脳内の思い込みとの葛藤、いや混乱。この混乱に微かな期待を寄せた私を見透かすかのようにダルデンヌは予測不能な展開へと疾走する。
やがて、生きることへの渇望に気が付く瞬間がそこに描かれ、神がそれを与えたのではなく、爾の隣人が差し伸べた細やかな愛に眼を開かされる少年。
そして彼は血を流しながら自分の言葉を初めて語る。見事だった。
傑作、お勧め。
シネヌーヴォで開催中の若尾文子映画祭の一本。
cinemakadokawa.jp1959年大映。今はKADOKAWAが権利を持っていて、デジタルリマスターDCP上映、画質音声共に良好。
本作の脚本を書いた白坂依志夫著「不眠の森を駆け抜けて」によると、当時の大映の量産体制に於いて脚本は200字詰原稿用紙で220枚前後。察するにこれで90分から100分前後の上映時間であろう。白坂氏が初めて増村保造監督と組んだ「青空娘」('57)で増村監督は350枚書けと要求したそうだ。本作も恐らくそれ位の量であることは想像に難くない。それでいて95分に仕上がっている。東京駅丸の内側を正面に左手前のビル(丸ノ内ビルディング)屋上のロケシーンがあるが、それ以外ほぼセット撮影の豪華さ。
膨大な会話劇、速射砲並みの早口の応酬である。三人兄弟と三人姉妹の政略結婚、その中で一際美しい末娘若尾文子だけややおっとりと話す。一つのシーンの始まりの冒頭に必ず本筋とは関係のないような小ネタ小芝居を入れてシークエンスをぎゅうぎゅう詰めにする演出。あの「東京物語」('53)の東山千栄子が慇懃な口調で喋り倒す楽しさ。
戦後たった14年で超打算的な、ひたすら金目と社会的地位のステップアップをシニカルに描きつつ、アッパーミドルの本音丸出しなのが痛快。ここであけすけに主張される結婚を巡る打算は今もあるはずで、ただ本音と建前が戦後14年よりも戦後75年の今の方が大きく深く乖離してしまっているだけのような気がする。
三女若尾文子にプロポーズした男を北海道に左遷する人事を夫の会社にねじ込む次女に夫船越英二が言う「あんた狂ってるよ」妻「そう、キチガイだけが出世するのよ」良い台詞だ、今は使えない。
脚本家にしては男前で女優にもてて仕方がなかった白坂氏の経験による人類学的女性論。彼の著書を読むとそれはそれは凄まじかった事が分かる。
www.imdb.com ホラー映画というのはジャンルの一つだが、ゾンビ映画というのはホラーともスプラッターとも区別されて独立したジャンルとされている。法律で決まっている訳ではないがゾンビが出て来る映画をわざわざホラーともスプラッターとも言わないのが不文律であろう。別に大して意味も意義もないが。
同じくそれほど意味も意義もないのが本作。タイトル「死は死んでいない」を深淵なテーマと捉えることも出来るが、ここではひたすらゾンビの顕在化を肯定する為だけにある。
ジャームッシュらしい間合いと呼吸をきっちり組み込んだ会話は森田芳光や山下敦弘といった日本語を使う監督に近いと常々思っていたが今回もそのノリ。田舎町の変な奴らの佇まい、山下監督の「松ヶ根乱射事件」('07)を想起する。
地球の自転の軸がズレたら何故ゾンビが出現するのかは分からない。自然破壊がウイルスを出現させ人類を襲う、という現在を予見してのメタファーなのか、という程ではないと思う。ネタバレになるので詳細は書かないが後半のティルダ・スウィントンの「回収のされ方」もただのギャグだろう。アダム・ドライヴァーの「スター・ウォーズ」のアレはベタ過ぎてテレビのコントレベル。
しかしなぁ。良いのかこんなので。目くじらを立てる訳ではないがBC級ジャンル映画をボク流にハイブロウに味付けしてみました、深い意味はないから笑えよーって感じ。しかしIMDbの点数は低く、批評もボロクソだ。まだ「ゴースト・ドッグ」('99)の清順オマージュの方が素直でカッコ良かった。