映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「パスト ライブス/再会」監督セリーヌ・ソン at OSシネマズミント神戸

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 黒地に白抜きのタイトル、PASTとLIVESの間が異様に長く空いている。

過去と今、過ぎ去りし日と今日。この間に流れる時間を表したであろうタイトル、そしてNYのバーから始まりすぐに24年前のソウルへと時間が遡る。

フィルムだろうか、とその豊かな質感に感心していたが IMDbによると35㎜とのこと。エンドロールにパナビジョンのロゴマークが。

 

 ソウルからトロント、1990年代の終わりか。韓国からカナダへ移住するノラ(グレタ・リー)と小学校の同級生で韓国に住むヘソン(ユ・テオ)の24年間を描く。

とどまる男と、羽ばたく女。

途中から冷静に見ていられなくなる。これは私だと。

いや、私に限らずヘソンの心情にシンクロしてまう男は多いのではないか。

ソン監督はあまりカットを割らず、間合いたっぷりに芝居を捉える。

NYのセントラルパークで12年ぶりに再会するノラとヘソンを望遠レンズ越しに捉えるショットの見事さ。

音楽はどこかしら「あの頃」の時代の雰囲気を絶妙に奏でる。

 

Quiet Eyes

Quiet Eyes

  • provided courtesy of iTunes

 

監督の出自を読むと、このストーリーは恐らく自身の事、つまりノラは監督自身なのだろうと想像する。

特に重大な事件が起きる訳でもない。

誤解を恐れずに言うと昨今のなんでもかんでもジェンダーやらLGBDQ的要素を「盛り込まなければならない」強迫観念や拗らせたような神経衰弱からは程遠い、牧歌的でストレートな純愛であるところが目と心に沁みる。

 

 あの時、別々の道を歩いて行かなければ、今頃どうなっていたのだろう。

誰しもが思う、抗えなかった摂理。

 

ラストの長い長い「お別れ」。

鋪道を元来た道へ戻りながら夫のいる家へ戻るヘソンを捉える横移動のキャメラに全身に電流が走るほど痺れた。

こんな映画がつくりたかった、やられてしまった、悔しいとさえ思った。

傑作、見事。抜群のセンス、本年暫定ベスト。40歳以上の大人なら是非。

 

「ゴッドランド」監督フリーヌル・パルマソン at シネリーブル神戸

GODLAND – New Europe Film Sales

 

 キネマ旬報が月刊化されてから映画鑑賞の手引きの役割が大幅に薄れてしまった。

こういう、接する機会の少ない北欧圏の国の時代劇映画にはある程度手引きが要る場合がある。

なので本作を観終わって久しぶりにパンフレットを購読した。アイスランドデンマークの歴史的な関係、宗教的背景、そして撮影方法を知りたかったからだ。

なるほど19世紀のアイスランドデンマークの属国であった。また、デンマークの国教がプロテスタントのルーテル派であり、憲法も宗教もデンマークからアイスランドにもたらされたことを知る。

だから、本作の主人公、デンマーク人牧師の隠しても隠しきれないアイスランド人への差別意識、特に後半に露わになる暴力的侮蔑が理解出来る。そして差別される側のアイスランド人の心情も。

 さて、それより何より刮目するのは撮影である。

スタンダードサイズの四方の角が丸い。牧師ルーカス(エリオット・クロセット・ホーヴ)がえっちらおっちら担いでいるダゲレオタイプの写真撮影機。

このファインダーを通して観る世界にこの画角が合わせられている。

だから、フレーミングは頑ななまでにフィックスか横移動で、空間の上下にはキャメラは動かない。そしてレンズによるクローズアップは無く、トラックアップが数カットある。このタイミングがまた絶妙なのだ。

圧倒的かつ禍々しいアイスランドの自然を絵画の如く描く。パンフレットによると何と撮影期間は二年。後半に出て来る、殺されたルーカスの愛馬の死体は一年かけて腐敗から白骨化までを定点撮影したとのこと。

 

 かつて「ミッション」('87)でも描かれた18世紀南米での過酷な布教活動と重なるのは、苛烈な自然との戦いが即ち神との対話であるという哲学である。

 

 

しかし本作では殉教精神の厳粛さが表層に過ぎず、そこに啓蒙という名の差別が抜き差し難く内在している点が描かれ、人間臭さが際立つ。

通訳を介してしか会話出来ないデンマーク人牧師、一方デンマーク語を理解しながら決して理解していることを明かさなかったアイスランド人の怨念。

完成したばかりの教会、泣き止まない赤ん坊、犬の吠える声。外に出た牧師はぬかるみに足を取られて泥まみれになる。嗚呼、神は確かにかの君を見ているのだという事か。

佳作、お勧め。

 

 

 

 

「オッペンハイマー」監督クリストファー・ノーラン at TOHOシネマズ西宮OS

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 IMAXスクリーンで鑑賞。

 180分観終わって一体どこから切り込んで書き残そうかと考えたところで「まだ一度観ただけでしょう」とノーラン監督がほくそ笑んでいるかのような重曹的で多面的な第一級の作品だ。

少し前までは最新の映像テクノロジーを駆使してハリウッド娯楽映画のジャンルに革新をもたらし、進む後には草木も生えない状態にしていたのはスピルバーグだった。

その彼が「ウエスト・サイド・ストーリー」(2021)以降「降りて行く道」を選んだ今、その任はこの人、クリストファー・ノーランに委ねられた、その決定作と言えよう。

 故大森一樹監督がかつて「日本の原爆開発」について企画開発をしていた頃があり、飲み屋で同席した折に「シャドー・メーカーズ」('89)という日本未公開作品の存在を教えてくれた事があり、すぐにDVDを買って観た。

 「オッペンハイマー」と同じく、マンハッタン計画を描いていて、同作ではマット・デイモンが演じていたグローブス将軍をポール・ニューマンが演じている。

オッペンハイマー」の予習復習にはもってこいの作品だが、この映画が未公開なのは、「オッペンハイマー」の公開が遅れた事と無関係ではないと想像する。

 

 

 さて。

若きオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)が担任教授に叱責された腹いせに青リンゴに青酸カリを注射して教壇に置く。

冒頭のユニヴァーサルの、お馴染みの地球が回るロゴから既に「地球」というもの、地球に住む「人類」というものが物語全体の一番底の部分にモチーフとして設られているように思えてならない。

青リンゴに青酸カリもまたそのメタファーであり、怒りに任せて注射、は戦争を指すと想像する。

ラスト、ついには地球がメラメラと森林火災のように燃えて行くカットでその思いを深くする。

物理学という知性が大量殺戮という反倫理と結び付き、戦争犯罪という反知性が「国を守る」という倫理にすり替わる恐ろしさ。

そのすり替わるポイントのまん真ん中に佇むオッペンハイマーを画面いっぱいに捉え、周りの情景のフォーカスをぼかして滲ませる事で表わされる罪を意識する男の孤独。

アマデウス」('85)のサリエリモーツアルトを想起させるストロース(ロバート・ダウニーJr.)のオッペンハイマーの才能への嫉妬。ストロースの悍ましさ、そしてオッペンハイマーの仲間達の保身から来る裏切り。

ここには人間というものの原罪が通底している。さすれば、あの教壇の青いリンゴは、旧約聖書「創世記」のアダムとイヴに通じると考えるのは穿ち過ぎか。

 従来のノーラン作品のルービックキューブのような幻惑的多面性を更に深化させ、圧倒的サウンドは観る者の神経を刺し、光の眩しさは被曝の恐怖を疑似体験させる。

そしてオッペンハイマーが幻想の中で思わず足で踏んでしまう黒焦げの死体に思いを馳せよう。

俳優は全員最高レベル。この中に「フルメタル・ジャケット」('87)のマシュー・モディーン、「戦場のメリークリスマス」('83)のトム・コンティが。

'80年代に戦争を描いた映画の名優達がいるのはノーランによる恣意的な選択だと思いたい。

オッペンハイマー」それは体感し、思考する映画。必見。

「青春の反抗」監督スー・イーシュエン at Cinema KOBE

映画『青春の反抗』オフィシャルサイト

LINE UP - Cinema KOBE シネマ神戸 Official Site

 

 1993年の台北での学生運動を描く。

中国語の原題は「青春並不溫柔」、青春は優しくないと言ったところか。

一方英語のタイトルは"Who'll Stop The Rain"でこれはCCRの名曲のタイトル。

 

Who'll Stop the Rain

Who'll Stop the Rain

  • クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 これはカレル・ライスの地味ながら佳作の「ドッグ・ソルジャー」('78)の原題。

the rain =雨はベトナム戦争時のナパーム弾の雨を指し、当時のベトナム反戦歌でもある。

そんな事を意識した英語タイトルで、映画の中身は台湾版「いちご白書」('70)だな。

本作の時代が1993年、日本ではとっくに学生運動は絶滅していた時代、戒厳令解除から6年の台湾では反権力の息吹きが芽生えたばかりだったのだろう。

芸術大学の指導教官や、学生達の父親世代の横暴ぶりはまるで大映ドラマの典型的な悪役並みで、ほんまにこんな奴おったんか、と唖然となる。

 

 学生運動につきものなのは三角関係。我が国だと荒井晴彦のオハコだが、本作では一人の女が中性的な魅力で男と女を翻弄する。女をめぐる男と女の三角関係なのだ。

二人を翻弄するチンを演じるイェ・シャオフェイが魅力的。

スー監督が女性だけに、このチンへの肩入れが感じられる。

ただいくつか素敵なショットがあるものの、全体的にはとっ散らかってしまった印象。

 

www.asianparadise.net

 というのも学生運動の熱量を三角関係の恋愛の熱量が中途半端に優ってしまった感じがしてならない。権威への抵抗もあっさりと萎んで行く。

しかしそういった未整理も止むに止まれぬ程イェ・シャオフェイの魅力に引っ張られた故なのだろうと想像する。それこそ青春というものだ。

 

「ビニールハウス」監督イ・ソンヒ at シネリーブル神戸

映画『ビニールハウス』公式サイト

 

 原題訳ではグリーンハウスで、どうやらビニールハウスは和製英語のようだ。

田園に立つ一つの黒いビニールハウスの全景がオープニング。

一つ、というのが異様でコンテンポラリーアートのような象徴性を帯びる。

住宅問題、痴呆症、母子家庭、老老介護、少年犯罪。

これらを安易に並べ立てるネット情報の切り貼りような日本映画とは違い、本作の監督・脚本のイ・ソンヒは冒頭の、強い力を放つ黒いビニールハウスのデッサンから始まって、韓国社会のどこにでもいそうな人物の造形を深く掘り込んで行く。

 ストーリーは関西弁でいう「マンが悪い」の連続である。

ちょっとした挙動が不運を招き、更に悪い流れへを誘う。溝口健二の「西鶴一代女」('52)ほどのヘビー級のマンの悪さに比べると、本作のヒロイン、ムンジョン(キム・ソヒョン)の愚昧さは哀れでありながら滑稽でもある。

犯罪の加害者でも無いのに「マンが悪く」かかってくる息子からの電話で意識が変わり、加害者であることを認めてしまう行動に出る、その行き当たりばったりぶりは、ヒロインに感情移入させない秀逸な演出だった。

 後半はネタバレになるのであまり書けないものの、あのビニールハウスで数日経った死体の臭い、撒いた油の臭いはするはずだろうと演出にご都合を感じる。ムンジョンの母親が口をきかないご都合は目を瞑るとしても、だ。

 編集はシャープ、情に流されない冷徹さは買う。

「落下の解剖学」監督ジュスティーヌ・トリエ at TOHOシネマズ梅田

映画『落下の解剖学』公式サイト

昨年のカンヌパルムドール

フランス、グルノーブルの山小屋風の邸宅が舞台。

グルノーブルといえばルルーシュ白い恋人たち」('68)。

 

 

 が、本作にはフランシス・レイの名曲に載せた華麗なスキー競技シーンとは無縁、不穏な大音量のラテン音楽がその場に居合わせる人間関係を壊して行く。

少年が愛犬を連れて散歩に出かける。サングラスをしているのは雪が眩しいからと思って観ていたら、違った。この辺りの見せ方は秀逸。

さて、その少年ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)が散歩から戻ると家の前に横たわる父の死体に遭遇してしまう。

邸宅の二階にいたはずの父サミュエル(サミュエル・テイス)は故意ではなく転落したのか、それとも誰かに突き落とされた他殺か。

真っ先に疑われたのは一階で学生からインタビューを受けていたサミュエルの妻で作家サンドラ(サンドラ・ヒューラー)。

サンドラは早速弁護士(スワン・アルロー)を雇うが、程なく彼女は起訴される。

 ヒッチコックの「断崖」('41)のような展開に持ち込むのかと思いきや、本作の中心に据えられたモチーフは「夫婦関係の崩壊」であった。

姓名の名を夫婦を演じる俳優の名をそのままに当てているのは、洒落ではなくこのドイツ人の妻とフランス人の夫の関係を描く上で必要としたのであろう(脚本はトリエ監督オリジナル)。ニュアンスとしてドイツ人、フランス人の気質の違いも感じる。

 中盤から法廷劇となり、やがて真相が詳らかになって行く。

ネタバレになるのでこれ以上の内容は伏せるが、何とも言えず薄情な感じがするサンドラの人物造形が見事だ。決して善人、悪人の二分法では割り切れない。

その立ち振る舞いはひよっとしたら大どんでん返しがあるのでは、とさえ思わせる。

ダニエルの愛犬スヌープが名演、と思って観ていたがカンヌで賞まで取っていた。

www.hollywoodreporter.com

 観終わってカタルシスがある訳ではない。それでもこの特に珍しい関係でもない夫婦というものを繊細に描いた手腕は見事。

平日の梅田、満席だった。

 

 

「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」監督・井上淳一 at シネリーブル神戸

www.wakamatsukoji.org

 サブタイトルが「止められるか、俺たちを」の2となっている。近年、続編のタイトルに番号を付けるのは忌避される傾向にある。1を観ていない人が食い付いてこないからだ。昔は1がヒットして2、3、と続くのが恒例だったが、今の客は己の無知を恥と思わず作者の説明が不足していると高みに立つからそういう現象となっている。

そんな「2」も「3」も沢山あった1980年代の名古屋が舞台。

井上監督は歳が私より一つ下なので観ている映画はほぼ同時代。通過している映画史も並走していたことになる。

 井浦新の憑依芸とも言える若松孝二監督の行動が可笑しくて、そして切なくて堪らない。「大林なんてどこが良いんだ」に爆笑。

19歳の井上青年(杉田雷麟)のダメ助監督ぶりも「あるある」だ、本人は辛かっただろうが観ているととても可笑しい。

シネマスコーレの人々、若松監督の話す言葉に登場する人名も記号も一切説明がない潔さ。レンセキが、あっちゃんが、と知らない人は置いて行く。それでイイのだ。

美加理、太田達也の自主映画に出ていた人。不意に出て来て(本編では美加理をモデルにした人が演じている)懐かしさに胸踊る。今はどうしているのだろう。

 ラスト、あの世の砂漠はパレスチナか。

 自分の青春時代の記憶を映画に出来る幸運で幸福な映画監督は世界中で数えるほどだろう。

例えそれが負の記憶だとしても。

スピルバーグなんか75歳でそれをやっているのだから。彼は間に合ううちにと思ってつくったに違いない。それを50歳代で実現させた井上監督が羨ましい。

しみじみ1980年代を感じる。久しぶりに映画を観て笑った。観られた私も幸福だ。