1958年、東京の風景を再現した緻密なCG、路地から都電の走る大通りへとワンカットで押し切る力技に、この映画が実に贅沢につくられていることを一瞬にして知らしめる。
そしてそのディティールは過剰だ。小栗康平が描く寂しげな「あの頃」とは正反対に、貧しいが健気、というモチーフは却ってモノがあふれ,騒々しい。
ラジオ、オート三輪、駄菓子、少年雑誌、フラフープ、集団就職、上野駅、都電…そういったモノがこれ見よがしで五月蝿い。
しかし、この映画はそういった過剰なモノへのノスタルジーよりも、登場人物の殆どがやるせない事情を抱えているという「傷」の方が、より時代性を感じさせていることに成功している。
その象徴が、親に捨てられ、ストリップ小屋の支配人から飲み屋の女将(小雪)へとたらい回しされる少年(須賀健太)だ。少年は更に女将に疎まれ、駄菓子屋を営みつつ売れない小説を書く茶川(吉岡秀隆)に預けられる。この少年のみすぼらしさ、生きる為の他人への気遣い、そして文才があるという些々やかな希望。
涙無くしてこの子の瞳、この子の足取り、この子の放つ言葉は見られない、聞けない。
そして、ネタバレになるから「事情」は書けないが、町医者(三浦友和)の悲哀も抑制が効いていて、もの悲しい。
脚本は実に直球で素直、だが潤沢な製作体制においては直球こそが最も映画的に有効であることを物語っている。貧しさを描くのには金がかかるというパラドックス。
役者は全員素晴らしい、キャスティングの勝利、見応えあり、お勧め。11月公開。