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「ダウト あるカトリック学校で」監督ジョン・パトリック・シャンリィ at シネリーブル神戸

ジョン・パトリック・シャンリィが書き下ろし、'04に上演した舞台劇をもとに本人が監督した。
JFKが暗殺された翌年というと1964年。NY郊外の厳格なカソリック系小学校。校長(メリル・ストリープ)は神経質な教義原理主義。対して神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、優しく生徒や信者に接し、慕われていた。そんな折、シスターのひとりジェイムズ(エイミー・アダムズ)は、神父が学校唯一の黒人生徒に「親密すぎる接し方」をしていると疑念を抱き、校長に申告する。校長は神父を問いつめるが、神父は意に介さない。神父追放を決心した校長は、黒人生徒の母親を呼び出して…というお話し。
キネマ旬報」3月下旬号の特集を読むと、1964年は米国におけるカソリック教会の劇的な変革の年であったことがわかり、校長が守旧派、神父が改革派というバックボーンが透けて見える。ストリープとホフマン、この芸達者二人の丁々発止のやりとりは、非カソリック教徒の観客からすると綺麗ごとの応酬であり、更にはご都合主義でイエス・キリストを持ち出す校長に、欺瞞すら感じる。この辺は国民性や宗教によって解釈が変わって来ると思われる。
この映画の見所は実はそこではなく、黒人生徒の母親(ヴィオラ・デイヴィス)と校長のやりとりだ。辛酸を嘗めたに違いないこの親子の人生哲学の激白に対し、偏狭な教義主義がもろくも崩れさる瞬間のストリープのうろたえぶり。ホフマン、ストリープ、エイミー・アダムズ、ヴィオラ・デイヴィス全員が今年のアカデミー賞にノミネートされているが、出色はこの母親役のヴィオラ・デイヴィスだろう。
校長の過去(大罪について)、神父の過去(前歴)などが全て裏設定となっており、映像での示唆が一切ない。更には事件の真相も明らかにはされない。これを「観賞後の議論の喚起のため」と取るか、非映画的と見るかで評価は分かれるだろう。