映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「愛を読むひと」監督スティーヴン・ダルトリー at 109シネマズHAT神戸

1958年のベルリン、路面電車に乗っていて突然気分が悪くなった少年を介抱した女ハンナ(ケイト・ウィンスレット)。少年マイケルは病気が治癒したお礼をハンナに言いに行くが、ぶっきらぼうな態度のハンナ。しかし、マイケルは恋心を抱くようになる。そんな純情を見透し、ある時ハンナはマイケルをかき抱く。ハンナは路面電車の車掌だった。マイケルの本を読む声が良いと言ってセックスの前に本の朗読をせがむハンナ。そんな関係が続くがやがてハンナは忽然と姿を消す。数年後、大学の法学部に通うようになっていたマイケルは、ナチス時代、アウシュビッツ収容所でのホロコーストに対する裁判を傍聴する。その被告席にはあのハンナが座っていた。彼女は収容所の看守で、処刑されるユダヤ人の選別を担当していたという…というお話し。原作はドイツ人作家によるベストセラーだが映画では全て英語、出演者も英国人が多い。その分、平易な表現の英語で聞き取りやすい。原作もそうらしいが、少年(長じて弁護士となってからをレイフ・ファインズが演じる)を通じて見たハンナ像なので、彼女が文盲であることは、彼よりも先に観ている我々が気がつくという仕掛け。また、ハンナがなぜ文盲なのか、全く身寄りがない点なども理由は描かれない。あるいは、ホロコーストが彼女に与えた影響も曖昧なままだ。しかしそれら全てはダルトリー監督たるもの確信犯である。レイフ・ファインズの愛の記憶は彼女の曖昧模糊とした全体像よりも、15歳の時に彼女の体内に入って行った時に感じた温もりこそが支配している。従って映画冒頭の素性のよくわからない裸の女、のちに結婚した妻、そしてまともにコミュニケート出来なかった娘、父の葬儀にも出ず何年も会わなかった母親、それらの女性達よりもこの300人のユダヤ人を焼き殺した廉で無期懲役となる女に対し、実に誠実であろうとする。それは自らに孤独を強い、獄中の彼女と孤独を共有するという「ある愛のかたち」だ。これは深く、そして凄まじい。あの、大量のカセットテープ、カセットデッキに耳を傾けるハンナ、言葉を覚え、手紙を書くハンナ、しかし手紙の返事は書かない男。孤独の共有という背中と背中で通じ合うかのような男女を初めて目にした。観る者によって様々な解釈が出来る映画でもある。これらの行為に、違う印象を持たれる人がいても不思議ではないと思う。
原題は"The Reader"=読む人、しかし見終わって気がつくのはハンナのホロコーストの罪の告白にせよ、最後にマイケルが娘に語る「己の真実」にせよ、彼らは「話す人」でもあって、映画の登場人物の心理を読むのはむしろ我々、ということだ。佳作、お勧め。