映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「空気人形」監督・是枝裕和 at シネリーブル神戸

 東京、月島から江東区にかけての辺り。錆び付いたトタンで囲まれた長屋が多い。その中の一軒に住む男(板尾創路)は空気人形と同居している。空気人形は即ちダッチワイフなのだが、ある日何の前触れもないまま肉体が顕在化し、男の留守中に街に出る。そしてたまたま入ったレンタルビデオ店の店員(ARATA)に恋をする。生身の空気人形(ぺ・ドゥナ)は感情を持つことで能動的に生き始める…というお話し。
勿論、ファンタジーであり物理的な現実とは遊離している物語である。履歴書もなしにどうやってビデオ店にアルバイトに採用されるのかなどと考えてはいけない。これがウディ・アレンなら被虐的なコメディとして大嘘でまとめてしまいそうだが(きっと面白いだろう)、是枝監督はリアルな人間像を散りばめることで確信犯的にファンタジーとリアルを曖昧にしている。ペ・ドゥナの美しい裸身はあからさまであればあるほど体温が感じられず、安長屋の家屋の中でより一層美しさは際立つ。それは高等な演出とペ・ドゥナの演技力に依るものだろう。
登場する人々の殆どが「一人暮らし」であること。
是枝監督の前作「歩いても歩いても」('08)が家族についての映画であったのに対し、東京の空の下、ある者は家族に捨てられある者は家族を捨てて一人で住み一人で生きて行くという正反対の描写が続く。が、それは正反対であるからこそ地続きでもあるのは、過食症の女(星野真里)の留守番電話の母親の声、別れた妻の選んだ映画のビデオを探す男(丸山智己)、かつてそこに家庭があったことが感じられるビデオ店の店長(岩松了)の家のリビングなどから見えて来る。それらは各々の「空気人形」でもあるのだ。幻想としての家族への渇望のうら寂しさと物悲しさが、ファンタジーとリアルの曖昧さ故にダイレクトに伝わって来る。
ラストに至って観念が先行した感があり哀切感がすっぽりとぬぐい去られカタルシスからはほど遠い。空気人形の死は即ち各々のひとりで生きる孤独地獄からの脱却(イコール微かな生きる希望)とも読めるが、果たして。