エンドロールの事から先に書くのも何だが、夥しい数のEx.プロデューサーの名前が並ぶ。主演のアダム・ドライヴァーの名前もあるし、彼らプロデューサー達がまた名だたる監督達に"Special Thanks"の敬意を払うクレジットが続く。
シドニー・ポラックには"In Memory Of(その思い出に)"と冠が付く。それらの経緯を知りたいが、想像するにお金集めが大変だったという事だ。
マイケル・マンの映画はお金が掛かる。ふた昔前ならディノ・デ・ラウレンティスのような大プロデューサーがドーンと一発張る勢いでつくれたのだが、欧米映画界もなかなか大変である。シドニー・ポラックはそういえば「ボビー・デアフィールド」('77)というレーサーの映画があったな。
さて、中身の話。
大イタリア趣味、イタリア、イタリア、イタリア貴族のセンスで埋め尽くされるルック。大人の国の大人の時代。通りすがりのエキストラの洋服までちゃんと拘っている。
1947年創業の自動車メーカー、フェラーリのその10年後、1957年の一年を描く。
意外なことに、エンゾ・フェラーリの自宅、愛人宅、銀行、レース場の行ったり来たりでストーリーは展開する。世界中を飛び回っていた訳ではない、エミリアロマーニャ州モデナという町が「世界の中心」なのだ。
フェラーリの妻ラウラ(ペネロペ・クルス)、一世一代の名演。この映画は彼女に尽きる。長男を病気で亡くした心の傷を抱え、自動車開発とレースに湯水の如く金をつぎ込むエンゾを冷徹な金勘定で支配、姑の小言もどこ吹く風、浮気した夫エンゾに銃口を向ける。
ラティーナの激情を瞬きしない無表情で押し殺す。マン監督も見惚れていたのであろう、ラウラが涙を溜めながら微笑むアップを延々と捉えるカットが二度ほどある。
一方、エンゾの愛人リナ(シェイリーン・ウッドリー)は男に尽くし、家庭と家族を守る演歌妻、いや妻じゃないか第二夫人。
何人か出てくる花形レーサーの恋人達も昔ながらのアクセサリー型美女というステレオタイプ、精彩を欠く。
イタリア、カソリックの国は元々良妻賢母が尊ばれるお国柄。勿論不貞には厳しく、エンゾとリナの間にできた男の子も日陰の扱いだ。
見どころは迫力のレースシーン、と言いたいところだが、そうではない。レーサー達は敵意剥き出しで戦うという風でもなく、スピンオフしたライバルを助手席に乗せて帰還する程度だ。ライバル社マセラッティのオーナーも自軍のレーサーを「歩いて帰って来い」と叱りつける。レーサー達の個性にあまり焦点が当たっていない。
大事故が起き、岐路に立たされるエンゾ、そんな時に札束抱えて「離婚の条件」を叩きつけるラウラ。
これまでずっと強い男達が鎬を削って戦う姿を描いてきたマイケル・マン。ここに鋼の女を屹立させる。とにかくペネロペ・クルス、お見事。