モノクロ、スタンダードの画角。キャメラは殆ど対象には近づかず広いサイズで捉える。田中泯が登場しても決してキャメラは寄らない。かろうじて声で「田中泯かな」と分かる程度で、蔦監督はそんな事に腐心しないし、田中泯自身も完全にそれを受け入れているのだと思う。
「黒い牛」ではなく「黒の牛」とは。
男がたまたま拾った牛が誘って、母を失った孤独な男に出会いをもたらす。が、時が経ち再び男は一人に戻る。
禁欲的なスタイルを貫きながら、描かれる世界は物語から解放され、観る者に限りなく自由な想像をもたらす。
考えず、追わず、感じる映像である。
黒澤明「羅生門」('50)を遥か凌駕する大雨とその圧倒的な音のデザインが「大雨ってもの」を感じる。
反対に大雪の世界は音を吸収し、大雪の中、男の顔を雪が遮り限りなく純白で無音の世界が続く。
こちら世俗の映画館ではガサゴソ、咳払いと音が響く。我々は静寂というものを忘れてしまっていて、耐えられなくなっている。
ようやく静寂が明けると画角が広がって、色のついたフィルムの世界となる。何故かデイヴィド・リーンの「ライアンの娘」('70)の風景を思い出す。
禅の心得「十牛図」の九図、「返本還源:自然本来の姿に戻る」でエンドロールとなる。
フィルムは映画の「自然本来」である、というメタファーにも思える。
さて、十図は。それは映画の全てを見終わったところで示される。しっかとそれを受け取る。
佳作、お勧め。