短歌、俳句、川柳、詩と短い言葉の連結による「うた」の表現が多岐に亘っている国は他に類を見ない。日本語の語彙の豊かさは他国の言葉に比べると複雑怪奇とも言えるが、それ故に全国のどの社の新聞にも俳句のコーナーがあるほど市井の人々が日常的に「うたを詠む」事が珍しくない国でもある。そして言葉を書く(描く)書道もまた然りだ。
本作は言葉を紡ぐ、広い意味での詩についての映画である。
ラスト10分の言葉、詩の三者カットバックこそが渋谷監督のやりたかった画であったと想像する。このテンションの高まりから逆算して作った脚本であろう。
下ネタ俳句(それを詠む阿南健治のオーバーアクトは一体なにゆえなのだろう)も、過敏な聴覚によって独特の言葉の感覚を発する少女(日髙麻鈴)のオノマトペも、現代詩人だった少女の父とその妻(田中美里)も、押し付けがましい書道家も、言葉を紡ぐことが生きる支えになっている。
本作は、ええ歳した政治家からゲーム脳の若者まで語彙力が劣化しているこの国で、言葉の煌めきによる魂の救済を考えるきっかけになる映画かも知れない。