映画和日乗

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「PLAN75」監督・早川千絵 at 大阪ステーションシネマ

happinet-phantom.com

 ピントが合っていない画から始まる。即座にその不穏な影の動きから無差別殺人が起きたことが読み取れ、老人が殺されたことが顕在する。

 ラジオやテレビの音声を際立たせたり、恐らく偶然画角に入ったのであろう灯油販売のセールステープの音声や通り過ぎる救急車両のサイレンをも映画的な不穏を煽る効果として引き入れている音の使い方の巧さ。

 一方、必ずと言っても良いほど人物は後ろ姿で現れ、やがて光が当たって横顔が見えるという手法に拘る演出。

 当初近未来設定なのかと思って観ていたが、どうやらそうではなくパラレルワールドのような想念の世界であることが感知される。というのもリアルな世界としてはツッコミどころが散見される。実際ならば老人達の安楽死の為の収容施設のセキュリティや秘密保持はあれではザルも良いところだ。

 その収容施設での遺品の整理(というか強奪)はアウシュヴィッツのメタファーだろう。現代のアウシュヴィッツは人種や宗教ではなく年齢で選別されているということか。

 ただ、どうしても抜き差し難く反発を覚えるのは彼ら彼女らの死生観であり、死についての諦観である。生活出来ないから易々と、あるいは嬉々としてPLANとしての死を選ぶ、という描写。

 そこにはどんなに苦境にあっても生きたいと願う人間の本能がまるで感じられない。若い観念が先行している様に思えてならない。彼ら彼女らの「生きたい」という抵抗はPLAN75の案内が流れるテレビを消す程度でしかない。そしてそんな筈はない。これでは息子に背負われて楢山に登るおりん婆さんである。

 心変わりして叔父を救おうとする政府機関の男もそうまでする関係性が読めない。また、老人人口の抑制という主題が中盤から貧困問題にすり替わっている。

 日本の未来予想図、というより物心両面貧しき現代ニッポンの詰め合わせといったところか。

 平日大阪の映画館はPLAN75対象の方々と思しき観客でほぼ満席。しかしこの方々は映画鑑賞代金を払える方々。