映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「ワイルドライフ」監督ポール・ダノ at 恵比寿ガーデンシネマ

www.ifcfilms.com  俳優ポール・ダノ監督第1作。

1960年のモンタナ州、質素な秋の風景をフィックスを多用した落ち着いたキャメラでとらえる。14歳の少年ジョー(エド・オクセンボールド)はいつも口を半開きにして喜怒哀楽を見せない茫洋とした風情。まだ何になりたいのかわからない、とも言う。父親ジェリー(ジェイク・ギンレイホール )はゴルフ場で働いていて、愛する息子を伴ってグリーンの片づけなどをしているがクビになる。妻ジャネット(キャリー・マリガン)はそんな夫を慰め、励ます。この何も無さそうな田舎町に住む夫婦はどこか他の土地から移住して来たばかりで、やがてジェリーは割と職を転々としていることが分かる。ゴルフ場から復職の連絡があるがジェリーはプライドを傷つけられた、と断る。ここからこの男の軽い鬱のような症状が露わになり、なるほど職を転々として来た素因が見え、遂には山火事消火の時給1ドルの半ばボランティアに出奔してしまい、妻と子は置き去りにされる。夫がいなくなると妻ジャネットは女としての性が剥き出しになり、息子に最近の夫婦生活を愚痴ったり、平気で浮気をしたり。

 リチャード・フォードの小説が原作とあって、ゴルフ、山火事、壊れたテレビを見続ける、海のない土地の水泳コーチ、足の悪い退役軍人との情事、とアメリカ文学的な記号性が際立っていてリアリズムは放棄されている。息子ジョーにとっては殴る蹴るの暴力と同等くらいに心的に傷つけられているように見えるこの両親の在りようだが、彼は決して心情を爆発させず、グレず、恋にも目もくれず、むしろ夫婦の復縁を願ってやまないあたりは泣かせる。ええ子過ぎて、なんでこの夫婦からこの子がと思ってしまう。彼が写真館でアルバイトをし始めるあたりからエンディングは見えていたが予想通りだった。

 一人っ子家庭と、妻の浮気相手の四人がメインキャスト、アメリカ映画も大作以外は予算削減で段々日本映画化して来た。悪い映画ではないが、だからどうしたという感じ。

「新聞記者」監督・藤井道人 at MOVIXあまがさき

shimbunkisha.jp  今一番の話題作と言っても過言ではないだろう。MOVIXあまがさき、平日昼の回満席近い。

 前半は既に報道されている昨今の政治スキャンダルのコラージュ、後半はフィクション性が強化されて飛躍する展開。ちょっとガラパゴスなのは官邸の不正義行使の知識が無い観客、平たく言えば海外の映画祭などで観る観客には分かりにくいかも知れない。

 藤井監督はカットバックを多用、同時刻に展開するマスコミ側と官僚側を交互に描く手法を取る。また世代の継承、新聞記者吉岡(シム・ウンギョン)の親子関係と官僚杉原(松坂桃李)と生まれたばかりの我が子も相対していて、正義に生きるか保身で家庭=子供を守るかの逡巡がクライマックスに繋がる構成。保身で家庭を守ったはずの杉原の上司・神崎(高橋和也、好演)の自死も杉原の行動のモチベーションとなっている。

 無駄なカットが無くスリリングな展開だが、杉原の妻のあまりの物分かりの良さは平板な印象。アメリカなら離婚でしょう。またこの不正義、政治腐敗の頂点にいる人間の顔、声すらも一瞬たりとも見えない聴こえないのも隔靴掻痒。

 現政権への痛烈な批判故、製作・上映が危ぶまれた、という宣伝文句は素直には信じられない。というのも、この映画出資社の筆頭にVAPという日本テレビ系列出資の会社がクレジットされており、圧力があったとすればここはまず出資しないだろう。脚本読まずに出資する訳ない。また、誰も指摘しないが本編にしばしば登場する総理官邸前の交差点のシーン、背景に警察車輌や警察官が映り込んでいるカットまであったがあそこは普通撮影許可出ない。ましてやこの内容なら尚更。「太陽を盗んだ男」('79)の国会議事堂前ロケは全て無許可撮影だったのは有名な話だが、松坂桃李とシム・ウンギョンが走ったり、田中哲司が仁王立ちしていたりそんな芝居を許可無しには撮れないはずだ。どこかに精巧なロケセットを組んでやっていたのなら話は別だが、あれは撮影許可出ている筈だ。と、いうことは?色々裏目読み的な想像が逞しくなってしまう。日本テレビが放映権を持つ日本アカデミー賞、果てさて来年本作をどう扱うか。

「COLD WAR あの歌、二つの心」監督パヴェウ・パブリコフスキ at テアトル梅田

www.imdb.com  戦後4年のポーランド、どこかの田舎町の民俗舞踊団の学校の様子から始まる。全国から歌やダンス自慢の若者が集まり、オーディションを受ける。パッショネイトな歌と踊り、何より人見知りしない押しの強さを持つ少女ズーラ(ヨアンナ・クーリク)に、審査員ヴィクトル(トマシュ・コット)はひと目で恋に落ちる。

 素晴らしかった「イーダ」に続くパブリコフスキ監督の昨年度カンヌ監督賞受賞作。引き続きモノクロ、スタンダードで前作ほど厳密ではないが画面下半分に人物を配置する構図。今回はズーラとヴィクトルがパリに渡ってからの時代、酔って踊るズーラがバーカウンターに登ったところでキャメラはバーンと跳ね上がり、躍動する。この転換にゾクッとする。説明を排した映画的演出も秀逸。舞踊団の管理部長がヴィクトルに「今まで民俗舞踊なんて興味なかったがこれは良い」と褒める。が、ヴィクトルは目も合わさず微かな微笑みを湛えて無視を決め込む。次のシーン、管理部長が舞踊団の監督とヴィクトルを呼び出し、スターリンを讃える演目を入れろ、と圧力をかける。ヴィクトルの態度だけで人間関係と時代を読み取らせる。パリに渡ったヴィクトルがズーラ会いたさにポーランドに戻るが国家反逆の咎で懲役15年に処される。ズーラは囚われのヴィクトルに「ここから出してあげる」と宣言。その次のシーン、歌うズーラのステージを見ているヴィクトル、例の管理部長が赤児を抱いて近寄る。「出してやるの苦労したよ」赤児を見たヴィクトル「生き写しですね」ズーラが歌い終わり二人の元にやって来る。管理部長は言う「ママが来たよ」。ズーラは管理部長の子を産んだのだ。それと引き換えにヴィクトルは罪一等を減じられた。赤児を巡る会話だけでズーラという女の恋のみに生きる激情を示す。惚れ惚れする巧みさだ。

 1949年から1964年までの15年、ひと組の男女の恋を88分で駆け抜ける。どんな男と女も恋の時間の灼熱の断片は、過ぎ去ってしまえばこれぐらいに凝縮されるものなのかもしれない。ラストは前作に引き続きまたしてもバッハ。音楽のセンスはこの監督の持つ才能の重要な要素である。愛の極北を見つめる二人が立ち去り、草原が揺れる、その計算し尽くされたタイミングに痺れる。エンドクレジットでこの映画が監督の両親の話であることが想像される。傑作、必見。

「イーダ」監督パヴェウ・パヴリコフスキ at シネヌーヴォX

www.imdb.com

mermaidfilms.co.jp  公開が控えている「COLD WAR」の予習にとこのミニマムなシアターへ。

 戦後15年くらいの、共産主義時代のポーランド、どこかの田舎町の修道院から物語は始まる。モノクロ、スタンダードの画面で人物は常に画面下半分の上手か下手に配置される。フィックスか微かな移動に徹したキャメラの動き(これはエンディングで明確な演出戦略として理由が明かされる)。画面上半分はぽっかりした空間となりそこは凍てつく荒野だったり、厳粛な修道院内部だったりするが、画づくりとしての光の操作がそれらの空間に徹底して施されていることにやがて気がつく。

 ヒロイン・イーダ(アガタ・チュシボフウスカ)は孤児で修道院に預けられていたが、叔母の存在を知り旅に出る。イーダは叔母から自分達がユダヤ人で親族もろとも殺されたことを聞かされる。ここが肝心なことなのだが、彼らを殺したのはナチスではなかった。ナチスに同調していたポーランド人だった。司法の世界で仕事をしていた叔母は親族を殺した男を突き止める。が、息も絶え絶えで何も語らず、息子だと言う男が「もう勘弁してくれ」と責任を回避する。この頃殺されたユダヤ人には墓など無い、と言う台詞があり戦後ナチスのせいにばかりされがちなユダヤ人差別の実態が示される。

 遺体を掘り起こすシーンが秀逸だ。掘り起こす、遺体が出てくるのではなく次のカットで叔母はすでに骸骨を抱いていて被っていたスカーフでそれを覆う。次のカットで堀った穴の中でうずくまって泣いている犯人の息子。父がやったのではない、自分だと告白するが真実はわからない。

 この映画的な純度はブレッソン並みである。叔母がこの後取る行動、そしてイーダの変貌。各々の欲望と倫理の逆転。静かな絵画的豊かさを湛えたルックがコルトレーンとバッハの曲に乗って揺れる。ラスト、その静謐と揺れの境目に息を呑む。

 パヴリコフスキを畏敬する。傑作。

 

「旅のおわり世界のはじまり」監督・黒沢清 at シネリーブル神戸

tabisekamovie.com   ウズベキスタンが舞台、日本のテレビ番組のクルーが幻の巨大魚を撮ろうと四苦八苦している。適当な感じで撮られているバラエティ番組の感じがよく出ている。札束で頬を叩く、という表現がぴったりの凡庸なディレクター(染谷将太)、仕事はこなすもので意思を持って取り組むものではない態度の葉子(前田敦子)。恋人とのライン命で目の前の事の殆どに興味がない。嫌な日本人だが典型的に現代の日本人像である。中東との国際合作、何故こうもウズベキスタンにとって迷惑な振る舞いをする文化程度か低く幼稚で視野狭窄な人物を描くのだろう、と思ったが観終わってしばらく経つとこれは黒沢清監督による「外から見た日本人」という事なのではないか、と思えてきた。葉子の、民家に繋がれている山羊に対する勝手な思い入れ、更に撮影禁止の場所にカメラを向けて警官から逃げ、捕まったら泣いて詫びるだけ。英語はI don't understandとNoしか言えない。そしてテレビクルーも葉子も決して現地の人の親切に礼を言わない。何もウズベキスタンだからという事ではない、外へ外へと向かっていく他国の若者に比べて何と内向きでひ弱なのだろう、という痛烈な批判に見えなくもない。

 葉子は積極的に道に迷う。レポーター仕事ではなく本当は歌手になりたいと言う。ウズベキスタンでの道行きが彼女自身の人生の迷走に重なる。心に響くものがないと歌えない、と言うが音楽も芸術も食文化も語らない、山羊のことと消防士の彼のことしか頭にない様にしか見えない。後、テレビ中継で他国の災難を知るシークエンスは「ニンゲン合格」('98)にもあったな。

「ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた」監督ブレット・ヘイリー at シネリーブル神戸

www.heartsbeatloudmovie.com  NY、ブルックリン。中古レコード屋の親父(ニック・オファーマン)は商売っ気が無い、気に入らない客は追い返す。そもそも自分が元ミュージシャンで趣味の延長のような仕事。しかしいよいよ閉店しなければならない。妻は事故死、聡明な娘(カーシー・クレモンズ)は西海岸の医学部に入学することになっている。貧しいが麗しい親子愛に満ちいてる。が、親父の方が娘と離れるのを嫌がって一緒に歌を作ろうとなり、気まぐれに歌ってみた娘だが、親父はその気になって音楽活動やろう、医学部どうでも良い、と言い出す。要は「子離れ出来ない親父」のお話し。

 ヘイリー監督、いろいろたくさん撮っているキャリアの監督だけど、ロケセットからロケセットに繋ぐテレビドラマ仕様。親子のレコーディングや演奏をダラダラ工夫なく見せるのは凡庸。寝たよ。娘が西海岸に行く、その為に同性の恋人と別れなければならない、つまり東西の交通費さえままならない貧困、だから医学部目指すのよ、となるのかと思いきや、グスグズしたエンディング。認知症のお婆さん、親父の女友達いずれも中途半端な人物造形とエピソードで退屈。娘の恋人役サーシャ・レーンだけが目をひく好演。

 金かかってない、かけられなかったのだろう、そういう意味では日本映画みたいで多少の同情。

「さよならくちびる」監督・塩田明彦 at OSシネマズミント神戸

gaga.ne.jp  冒頭、 黒いSUV車の中に座る男一人、女二人の行動と会話だけで見えて来る人間関係。終始引き気味のショット、一人の人物だけが居るように見せて、キャメラの位置が変わるともう一人人物がいる手法。映画的な密度の濃さにワクワクする。この三人が歌を歌いながら旅をするというだけで永遠の青春が予感される。口では「解散する」と言えば言うほど、だ。オツムの弱い子向けに量産されるイケメンキラキラエーガの、半分か三分の一くらいの製作費であることが冒頭のクレジットから想像出来てしまうが、そんなこの国の不条理をどんと引き受けながら塩田監督は日本列島の旅に出る。時にざわざわと木が揺れる風の強さは、勿論大型扇風機を用意した訳ではないだろう、台風が来るのを待っていた訳ではないだろう、偶然の産物なのにそれが彼女等の歌う詩の世界に心情的に重なるように見える奇蹟。

 ハル(門脇麦)の喜怒哀楽がはっきりしない顔、レオ(小松菜奈)の不安定ぶりがそのバックボーンに反映していて秀逸。ステージも熱くない、興奮せず淡々と歌う。タンバリンの男シマ(成田凌)の諦観と微かな希望が交互に現れる仕草と言葉。

 ちょっと小津の「浮草」('59)の鴈治郎を思い出させるシマの男っぷり。京マチ子がハルで若尾文子がレオか。小津の時代の風景の豊かさに反して、現代を旅する彼等が車のフロントガラスから見ている風景の貧相に情けなくなる。

 世界中にこんなバンドの物語が実際に今日も明日もゴマンとあるだろう。シマが過去の自分のバンドの話や、学生時代の親友と音楽のエピソードを話すが、映画の中でそれらは続き、音楽を巡る旅は延長され、物語は繰り返される、そんな暗示が素敵だった。