映画和日乗

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「闇打つ心臓」監督・長崎俊一 at KAVCシアター

1982年につくられた8ミリ映画「闇打つ心臓」のリメイク。
が、ただコピーするのではなく、当時の出演者だった内藤剛志室井滋が、23年後に再会するドラマと、
原型の作品の登場人物を新しく演じる俳優たちのドラマが交錯する構成となっている。
冒頭、赤坂にある「オフィス・シロウズ」に内藤剛志が現れ、本作のリメイクについてプロデューサーと打ち合わせするドキュメンタリー風のシーンから始まる。が、二人のプロデューサーが「芝居」をしているのがすぐに判るので、これはフェイクであり、ドキュメンタリーはあくまで「ドキュメンタリー風」であることが確信犯として進行していく。
つまり、映画というものは「撮られている部分」はごく一部であり、それ以外は意図的にせよ、無意識にせよオミットされているという点で「完全な真実としてのドキュメンタリー=記録」というのは存在しない。全てのフィルムはある意図によって切り取られたものに過ぎない。だから、全部がフィクションであり、撮られていない大部分がドキュメンタリーなのだ。その前提に立って長崎監督は、8ミリ版、その23年後の中年カップル、現在版の若い男女カップル、そしてメイキング風のフェイク・ドキュメンタリーを時間軸の進行に沿って繋ぐ。更に、1本の映画というものが「撮られる前」と「撮られた後」では人間関係や、時代や、生活全てがケミカル・リアクションを起こしているということまで提示する。23年の間に、諏訪太朗の髪は無くなり、内藤剛志は幾分太った。現在版に登場する、カップルに部屋を斡旋する女は長崎監督夫人、水島かおりだ。撮られる事によって、そして撮る事によって、人生は映画そのものとなり、この一本の映画は終わる事のないループを結んでいる。
キネ旬'06年4月下旬号で長崎監督は「半分以上は意図しないで、いいようのない力に動かされてこういう映画になってしまいました」と語り、プロデューサー佐々木史朗氏は「誰も観ないような映画を作りたいんだよ」(月刊シナリオ'06年4月号)と発言したという。
私はこの原型の8ミリ版を24年前に観ている。今回リメイク版を観ていて、殆ど忘れていたが、徐々に断片は思い出されて行った。実際、この8ミリ版を観ていない人に、この作品の意図は正確には伝わらないと断じても良い。しかしそれでもこの形で作ったプロデューサー、監督、そして俳優達の「人生全部映画」ぶりには、唖然とさせられざるを得ない。羨望を込めて、だ。

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