映画和日乗

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「グラン・トリノ」監督クリント・イーストウッド at 109シネマズHAT神戸

 一見下町人情話であり、古き良き'50年代のアメリカ映画の匂いをたたえたこの映画を構成するいくつもの描写層は、縦と横にがっちりと編み込まれていて、実に堅牢である。
その層とは、大きく分けて二つ。アメリカという国の歴史と、いまひとつはクリント・イーストウッドという大人の来し方である。
家族、戦争、自動車産業の衰退、移民、そして宗教。それぞれが今日のアメリカの荒廃と瓦解をもたらす災いとして描かれながら、解決と和解への道は、結局「個」のあり方次第であるとイーストウッドは導いている。その「個」はまた自らの命を賭けて「未来の若者達のアメリカ」へと希望を継承するのだ。この映画の後半その瞬間を目撃出来た観客は、魂を鷲掴みにされるであろう。
クリント・イーストウッド。ここではウォルト・コワルスキーという偏屈なポーランド移民の老人である。
朝鮮戦争の従軍経験があり、勲章を授かっているという設定は「ハートブレイク・リッジ」('86)のハイウェイ曹長を思わせる。また、「17歳の子供まで殺した」という告白は「許されざる者」('92)の「女子供まで殺した」殺し屋マニーに連なる。キリスト教への皮肉まじりの懐疑は「ミリオンダラー・ベイビー」('04)のフランキーと同じだ。つまり、これまでのイーストウッドの演じたキャラクターを複合しており、本人による集大成であることも自明だろう。
そして彼の映画を注意深く見続けて来た人なら脳裏によぎるであろう、かの巨大な十字架の下で卑劣な悪漢を足蹴にした「ダーティハリー」('71)の強烈なシーンを。本作でもチンピラがグループから離れてひとりになったところをかつてのハリー・キャラハン宜しく足蹴にして締め上げる。それは「いつものように」一瞬観る者の溜飲を下げる。しかしそのことが大きな禍いを呼んでしまうところがあれから38年後の彼の新しい世界である。これまで数多く映画の中で問答無用に悪漢を倒して来たことへの懺悔の象徴として、かつてドン・シーゲルが描いた「ダーティハリー」の十字架への自らの昇華がこの「結末」であると見た。
ダーティハリー」のベースストーリーとなっていたゾディアック事件をリアルに描いたデヴィド・フィンチャー監督の「ゾディアック」('07)には「ダーティハリー」の試写会のシーンがある。あの映画で容疑者を演じていたジョン・キャロル・リンチが本作のイタリア系床屋マーティンであるのは単なる偶然ではないと推測される。
イーストウッド本人以外はノン・スター(しかも素人多数)、ふたつの家屋ロケセットと教会と路地でほとんど展開する物語、つまり低予算でつくられたはず。それでこの映画観を揺るがす衝撃は一体何なのだろう。しばし立ち尽くし、心の中で平伏するしかない。
 途中から号泣してしまい、エンドロールの歌声で嗚咽しそうになった。傑作、必見。