映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「イーダ」監督パヴェウ・パヴリコフスキ at シネヌーヴォX

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mermaidfilms.co.jp  公開が控えている「COLD WAR」の予習にとこのミニマムなシアターへ。

 戦後15年くらいの、共産主義時代のポーランド、どこかの田舎町の修道院から物語は始まる。モノクロ、スタンダードの画面で人物は常に画面下半分の上手か下手に配置される。フィックスか微かな移動に徹したキャメラの動き(これはエンディングで明確な演出戦略として理由が明かされる)。画面上半分はぽっかりした空間となりそこは凍てつく荒野だったり、厳粛な修道院内部だったりするが、画づくりとしての光の操作がそれらの空間に徹底して施されていることにやがて気がつく。

 ヒロイン・イーダ(アガタ・チュシボフウスカ)は孤児で修道院に預けられていたが、叔母の存在を知り旅に出る。イーダは叔母から自分達がユダヤ人で親族もろとも殺されたことを聞かされる。ここが肝心なことなのだが、彼らを殺したのはナチスではなかった。ナチスに同調していたポーランド人だった。司法の世界で仕事をしていた叔母は親族を殺した男を突き止める。が、息も絶え絶えで何も語らず、息子だと言う男が「もう勘弁してくれ」と責任を回避する。この頃殺されたユダヤ人には墓など無い、と言う台詞があり戦後ナチスのせいにばかりされがちなユダヤ人差別の実態が示される。

 遺体を掘り起こすシーンが秀逸だ。掘り起こす、遺体が出てくるのではなく次のカットで叔母はすでに骸骨を抱いていて被っていたスカーフでそれを覆う。次のカットで堀った穴の中でうずくまって泣いている犯人の息子。父がやったのではない、自分だと告白するが真実はわからない。

 この映画的な純度はブレッソン並みである。叔母がこの後取る行動、そしてイーダの変貌。各々の欲望と倫理の逆転。静かな絵画的豊かさを湛えたルックがコルトレーンとバッハの曲に乗って揺れる。ラスト、その静謐と揺れの境目に息を呑む。

 パヴリコフスキを畏敬する。傑作。