映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

金沢市安江町「麺屋 白鷺」

大阪駅よりサンダーバード15号で金沢駅着。サンダーバードはほぼ貸し切り状態だった。

9ヶ月ぶりの金沢。

https://www.instagram.com/menya.sirasagi/

 
 
 
 
 
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金沢東急ホテルにチェックイン。

「コロンバス」監督コゴナダ at アップリンク京都

https://www.instagram.com/p/CBcFU8UjBDt/

京都に #アップリンク ができた #uplink #colombus

2ヶ月遅れでオープンしたアップリンク京都へ。

www.imdb.com監督のコゴナダは在米韓国人、本作で長編劇映画デビュー。これまで短編ドキュメンタリーを撮っていたようで、小津についての作品もある。↓

vimeo.com本作「コロンバス」を観れば小津の影響下にあることは一目瞭然、自身の名前も小津作品の脚本家、野田高梧に因んで名乗っているそうだ。

コロンバスは現代建築が集まっている街らしい。なるほどこのサイトを観ると映画のロケ地そのものだ↓

columbus.in.usこれら建築群の輪郭の美しさは小津映画の風景デザインに共通している。かっちりとした直線の縦横で画面を支配する。

 そんなところばかりに目がいってしまったが話しは実に平板である。

 コロンバスで建築学を教える韓国人教授が病に斃れ、息子ジン(ジョン・チョー)がソウルからやって来る。教授の教え子が彼のパートナーらしく「教授のおかげで今の自分がある」などと涙ながらに語る。

 一方地元の大学の図書館で働くキャシー(ハーレイ・ルー・リチャードソン)は母と二人暮らし。街の建築のガイドもこなしているが平凡な日々でタバコを吸ってうろうろするだけ。タバコのやり取りでジンと知り合い、キャシーの通りいっぺんな建築ガイドを遮って「自分は(その建築を)どう思うか」を問う。

 冒頭、後ろ姿だけで登場した教授はその後映画の中では姿を見せない。また、キャシーの母親は家にいる時は普通だが、勤め先にはいるのかどうかすらわからない謎の行動を取る。それらの不在の人物について延々語り合うジンとキャシー。それだけ。

 どうにもルックとスタイルにこだわり過ぎてしまって小津センセイに捧げる論文のような印象。人物のいない空舞台や風景の切り取り方、小道具の置き方、建物の中を歩く人物の動き全て小津風に近づけているので、まぁなんだかな、である。スカしてる感じが私にはどうにも。

「15年後のラブソング」監督ジェシー・ペレッツ at シネリーブル神戸

www.julietnakedfilm.com ジェシー・ペレッツ監督はミュージシャン出身、'68年生まれということは本作を発表した2018年は50歳だ。このことは本作を語る上で重要なファクターであろう。

 ニック・ホーンヴィの同名小説の映画化。ロンドン郊外のサンドクリフという美しい町が舞台。

こんなところ↓

https://www.visiteastofengland.com/accommodation/the-sandcliff

 町の歴史博物館でアニー(ローズ・バーン)は仲の良いレズビアンの姉と共に働いていて、町長肝煎りの1964年展の準備中。アニーのパートナー、ダンカン(クリス・オダウド)は大学教授だがタッカー・クロウ(イーサン・ホーク)なるロックシンガーの研究家、というかマニア。このタッカーは引退していてもう15年近く活動していない。

 ダンカン主宰のファンサイトを通じて未発表のデモCDが彼の元に届く。狂喜するダンカンだがアニーはこの歌は凡庸だとサイトに書き込む。それを見たタッカー本人からアニーにメールが届く。「君のいう通りだ」。ダンカンは同じ大学の講師と浮気、アニーとの同棲を解消。アニーとメールのやりとりを続けていたタッカーは幼い子供を連れてNYからロンドンにやって来る。アニーはタッカーと待ち合わせをするが来ない。実はタッカーは道中心臓発作を起こして緊急入院。病院に駆けつけるアニー、そこにはタッカーの人生の来し方を物語る様々な"ファミリー"が次々と見舞いにやって来る。両親も子供もいないアニーは"ファミリー"がいるタッカーを羨望の眼差しで見つめる。

 子供っぽいオタクのようなダンカンは子供は要らないと言い、それに同調して来たアニーの15年と、ある女性を妊娠させてしまった事をきっかけにミュージシャンを引退したタッカーの15年。それぞれが間違っていたかも知れない、若さを浪費してしまったのではと振り返る。1964年生まれの私にとっては胸に突き刺さる展開だ。

 人生の選択に後戻りは出来ない事への諦観を滲ませ浮き草のようにアニーの住む町にやって来るタッカー、タッカー本人に会ってしまったダンカンはマニアックな愛を口角泡を飛ばしてぶつける相変わらずの子供っぽさ。これもまた中年の典型のひとつ。アニーの冷たい目線。

 1964年展が開催され、84歳になるという老婆が自分と男友達が写った'64年当時の写真を見て言う。あの時、この男に何も言えなくて、と。あの時、こうしていたらその後の人生は違っていた。誰もが振り返る「あの時」がある。アニーにもタッカーにもある「あの時」「その時」。

 町長に指名されて歌うタッカーはどこか吹っ切れていて、歌わない事への拘りが消えている。それを見ているアニー、15年は物理的に取り返せるものでもない、だがここから変えて行こう、そんなラストのロンドンの街を行くアニーの顔がオープニングと全然違っていて清々しい。ローズ・バーン、素晴らしい役者。そしてタッカーは25年ぶりにアルバムを発表する。今この時の自分を素直に抱えて。

 50歳越えると日々思う事を見せられた感じ。しみじみ佳作、そういう世代にお勧め。