映画監督に必要なものは、という問いに「勇気」と答えたのは鈴木清順だったと記憶している。
「違う」と言う勇気、「こうだ」と言う勇気。即断即決か熟慮の末か。いずれにせよ芸術創造の主は勇気あっての才能だと、流石清順師は心得ていたのである。
さて「悪は存在しない」には、監督濱口竜介の振り絞る勇気を超越した確固たる自信が漲っている。
冒頭、どこまで行く(やる)の、と観ている私、つまり、映画を作ったことのある身としての私が不安になる程延々と続く仰角で捉えた森の天空の画。
繰り返し登場する自動車の後部から捉えた画。かと思うと誰かの視線にすり替わる瞬間のスリル。
隅々まで確たる自信が表れているのは、ノンスター、素人の起用。ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」が頭をよぎる。
そして徹底してミニシアターでの公開、加えてバリアフリー上映。濱口竜介が執り行う制作と興行、その自覚と自信に感嘆する。
芸能マネージャー上がりで、リゾート開発の説明会を任される男(小坂竜士)が、自然の森と水を擁する長野県の土地の男(大美賀均)に感化されて行けば行くほどその凡庸ぶりが際立ち、彼にいつかぶん殴られるのではという予感は、ラストになってシュールな跳躍で溜飲を下げる。思わず「お」と声が出てしまった。
私の予感は半分当たって、半分外れていた。
面白いとか面白くないとかいう映画ではない。また、観客に想像させる余白がある、と言うのも何だか違う気がする。答えとか真実とか、そういった「見方」から解放されている清々しさを私は目撃したのだと思う。
あまりにテレビ的な何かがスクリーンを占拠する今、観るべき映画。