「映画芸術」春号の阪本順治監督インタビューによるともともと短編で製作され、本編で八つの章に分けられているエピソードの終章から先に撮影・完成していたそうだ。従って、ストーリーと時間の流れを逆算しながら脚本を執筆したと言う。
モノクロ、スタンダードというクラシックは今では大抵のプロデューサーから反対の憂き目に遭うだろう。ましてこの映画にはチャンバラも切腹もない。倹しい庶民、いや当時の身分からいうとそれ以下の人々の姿を描いている。阪本順治という監督の仁徳で企画が実現したのだと想像する。
モノクロだがそれぞれの章「お尻」はカラーとなっている。夥しい糞尿はその色よりも音の方が「悪い意味で」刺激的に感じる。
汚穢屋、というのは私の世代では微かに見た記憶がある。しかし昭和の時代ですらもっと蔑まれていたはずで、本作はその点はまだ優しい。
一話一話は季節の移ろいと共に時間が進んで行くものの所謂「話の結」はない。短歌のような味わいである。
唯一、おきく(黒木華)の父(佐藤浩市)がかつて宮仕だった頃の同僚との決闘に赴く章に硬い緊張感が漲る。そしてその決闘そのものは描かれない。それを期待している向きをあっさりと捨てて行く。
それでもラストの雪はクラシックな時代劇の香りがして美しい。見事な画作りに京都の映画スタッフの年季を感じた。そしてその後のエンドロールでの魚眼レンズが捉える丸い世界に、何故かほっと温かい気分になれた。