映画和日乗

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「トゥモロー・ワールド」監督アルフォンソ・キュアロン at 109シネマズHAT神戸

2027年、世界中の主要都市はテロと異常気象で崩壊し、英国だけが辛うじて機能していた。しかし人間の体質は異常を来たし、子供が生まれない社会になっている。しかも移民を極端に制限、人種差別が横行している為、テロは日常茶飯だ。そんな絶望的なロンドンの町、セオ(クライヴ・オーウェン)は、元妻(ジュリアン・ムーア)の要請で反体制組織の任務に加担させられる。それは人類救済への微かな希望だった…というお話し。
20年後の世界を描く、というのは映画監督として大変リスキーな作業であるはずだ。かつてキューブリックという完全主義の巨匠でさえ、「当らずとも遠からず」という未来世界に留まっていたことを現実は証明している。私的な仮説だが、キュアロン監督は開き直りつつ、ある絶好のチャンスを掴んだのだと想像する。それは、いまイラクソマリアルワンダレバノンで起きていることが、西欧世界を舞台に起きているとしたら、というモチーフである。
テレビニュースを通じて彼岸の出来事としか映らない(それ故国際世論は極めて鈍感である)世界の戦争が、もし英国内で起きていたら、という仮構は、ここに素晴らしくも絶望的なルックを完成させる(撮影監督はエマニュエル・ルベツキ、流石の仕事ぶり)。あふれる難民移民への人権侵害、突然の爆発、死体を抱いて泣き叫ぶベールを被った老女、蹂躙する戦車…これまでメディアを通じて幾度となく見ていた「彼岸の出来事」を未来世界という仮構を通じて、強烈に観客に叩きつけている。これは未来ではない、いまなのだ、と。
更にここで闘っている人々…にこやかに死を賭して抵抗するヒッピー(死語か)のようなマイケル・ケイン、「元活動家の夫婦」であるセオとジュリアン、その1960年代的バックグラウンドは、極めて非未来的=近い過去であり、これは確信犯的演出であろう。
ラスト、人類救済の微かな希望を乗せる船「トゥモロー・ワールド」号を目指す小舟のたゆたいに目頭が熱くなった。
20世紀初頭「トゥモロー・ワールド」とはアメリカを代表とする自由主義国家だったのに、21世紀のこれからは別の何かを探さねばならない暗黒に、どれだけの人が気づいているのだろう。原題は「人々の子供たち」、複数形が深い。蛇足だが今作に黒沢清監督の「カリスマ」('99)の影響が感じられたのは私だけか。
この映画、かつての「ブレード・ランナー」('82)のように、数年後に評価が高まるような気がする。傑作、お勧め。