映画的日乗

映画、食、人。西に東に。

「ドライブ・マイ・カー」監督・濱口竜介 at 109シネマズHAT神戸

f:id:Mitts:20210922105751p:plain

dmc.bitters.co.jp  村上春樹の原作は未読。

 冒頭のアバンタイトルの字体のセンスが秀逸。本作とは全然関係ないがルルーシュの「男と女」('66)の風景に重なるフランス語の字体に似ている気がした。

 東京と思しきマンションの一室、逆光で良く顔の見えない女のつぶやく物語を寝物語で聴く男・家福悠介(西島秀俊)。彼は演劇関係者のようで、「ゴトーを待ちながら」の舞台に立つ。演出家も兼ねているようだ。女(霧島れいか)は悠介の妻で名前は音と言う。テレビ関係の仕事をしているようだ。

 悠介の舞台の楽屋に、音は若い俳優・高槻(岡田将生)を連れて来て紹介する。悠介はロシアに審査員の仕事で旅立たなければならない。愛の存在を疑いようもない家庭から愛車の赤いサーブに乗って空港に向かった悠介。しかしフライトの都合で飛行機は飛ばず、家に引き返す。

 悠介が玄関のドアを開けると妻の悦楽に溺れる嬌声が聴こえる。相手は高槻のようだ。悠介はドアを閉め、空港近くのホテルの部屋からパソコンを使って妻と話す。

ウラジオストックに無事着いた」平然と嘘をついて感情を表すことなく会話をかわす悠介。

 夫婦関係のありようは様々だが、この映画は手垢に塗れた倫理観をここで崩すことで進んで行く。

 悠介が演出する舞台もまた多言語が入り乱れる。韓国語、英語、中国語、さらに手話。それらが有機的に会話として成立する筈もないのに平然と進行していく。

 観る側はここで「あるべき倫理性」から解き放たれる。いや、そんな訳ないだろう、妻が不貞をはたらいたら怒り狂うだろう、言語が通じない演劇なんてあり得ないだろう、と思う者は置いて行く。

 悠介の妻・音は突然死ぬ。悠介がいつ妻の不貞を持ち出し責めるのだろうかというスリルはここで断たれ、そういう物語の定形はここでも崩される。濱口竜介の「そう簡単には行かない」表現という名の掌の上で右往左往する愉しみが始まる。

 東京から広島の演劇祭に赴く悠介は運転手を充てがわれる。当初は愛車の運転を他人に任せることを拒否する悠介だが、演劇祭の決まりだとスタッフに押し切られる。

 その運転手・渡利(三浦透子)は左頬に傷があり、視線は常にどこか遠くを見ているかのようで全く対話者を見ない。故郷は広島ではなく北海道の寒村だと言う。

 倫理からの解放はあちこちで炸裂し、悠介は殺人事件をきっかけにある決着を迫られても心の声に従って渡利を伴って彼女の故郷に向かう。

 フェリーの中のテレビの音声、波濤を蹴る船の音、風。そこからふっと無音の雪景色になる。悠介、そして渡利のそこにいる必然を補強する静寂に不覚にも感動してしまう。

 未だ観ぬ人の為にエンディングは伏せておくが、運転手・渡利があの姿でまたしても「そこにいる必然」を観客はここまでの展開をヒントに想像しなければならない。その行為は豊穣なる映画体験と言える。

 3時間観終わって、心揺さぶられる感動とも違う、新しい世界に啓発されたかのような爽やかな気分が半日経ってもまだ持続している。

 お勧め。