リチャード・ナッシュの原作は既に何度か映画化する企画があったらしい。
脚本をリライトしているのがニック・シェンクでこの人は「グラン・トリノ」(2008)「運び屋」(2018)を書いている。なので今回もイーストウッドの為に当て書きしているのは自明。
いつものように口が悪く、いつものように何故か何も言わなくても女性にベッドに誘われ、いつものようにパンチ一発で相手を倒す。観客がイメージするイーストウッド像を1ミリも裏切らない。高倉健並である。
そしてマルボロのCMのように西部を駆け抜ける郡馬と並走するシボレーのバン。古き良きアメリカの幻影。舞台を1980年としているが、イーストウッドはアメリカはこの40年で「これだけのものを失った」と並べ立てて行く。アメリカ映画とはこうだろう、と。
お話のベースは自身の監督・主演作の「ガントレット」('77)だろう。
www.imdb.com 裁判の証言台に立たせるために拘置されている娼婦の護送を任されるアル中刑事。そこには警察内部の犯罪を隠蔽する罠が仕掛けられていた、というお話だった。娼婦をメキシコの不良少年に、酔いどれ刑事を老調教師に置き換えたら本作と骨子は変わらない。
元ロデオスターというキャラクターは「ブロンコ・ビリー」('80)に重なるし、不良少年との道行きは「グラン・トリノ」とも「センチメンタル・アドベンチャー」('82)とも重なる。更に動物と仲良し、とくれば「ダーティ・ファイター」('78)だ。旅先の優しい女との恋は「マディソン郡の橋」('95)のまんまで、ラストも流石に笑ってしまうほど確信犯だ。
それだけ幕の内に詰め込んでいるので脚本はご都合主義、度々少年の父親に経過報告するマイク老人、何故父親に子供の声を聞かせてやらないのだろうと思ったら、電話している間に少年が色々やらかす演出の為だからと分かる。
車を盗まれた後、駐車されているポンコツ車を「ちょっと借りる」のも何だかな、だ。少年の前でロデオをやってみせるロングショットは「吹き替えてます」と言っているようなもので、うーん要るのかな、と。
だがしかし。それでも尚私はこの映画を愛せる。
落語の名人級の大師匠が、何度も高座にかけた十八番の人情噺を、痩せても枯れてもなお今一度やってみせる。長年のご贔屓筋の喝采を信じて。
そんな風に見えてならない。
メキシコ国境で父親に子供を引き渡すマイク、私の記憶が間違っていなければバックの音楽が「グラン・トリノ」の主題歌と同じメロディではないか。
エンドロールの徹尾「Alanに捧ぐ」と出るが、アランとはイーストウッド組のサウンド・エディター、アラン・ロバート・ミュレイのことらしい。
最後まで人情。