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「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」監督マーティン・スコセッシ at TOHOシネマズ西宮OS

映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』公式サイト

 

 IMAXにて鑑賞。

 アメリ先住民族の儀式の様子から物語は始まる。

自分達の言語がやがて白人によって奪われることを嘆き、何やらご神体に祈りを込めて土に埋めるとやがてその地から石油が噴き出す。もう手練れも手練れスコセッシの語り始めは見事である。

 さてその先住民はオセージ族と呼ばれ、噴き出した石油の利権を手にする事で豊かな暮らしを営んでいた。その様子をモノクロの無声映画のスタイルで畳み掛けるようにみせて行く。それら映画によって時代が1900年代初頭である事が分かり、モノクロの映像から色が着くと軍服姿のアーネスト(レオナルド・ディカプリオ)が農場主で叔父のヘイル(ロバート・デニーロ)を訪ねるショットへと流麗に展開する。

戦争から戻った、と言うアーネストにヘイルは性病の有無を訪ねる。軍服からそれが第一次世界大戦後であることが分かり、時代が一気に20年程進んで1920年代となっている。ここまでスコセッシは字幕で年号や場所の名前を示さない。しっかり画面をみる事で時代を感じよという事だ。

オクラホマ州のその町では白人種が、石油貴族であるオセージ族に「パラサイト」している事が示される。運転手が白人で雇い主が先住民という、それはこれまでの映画史で見た事のない図式である。ジョン・フォードの「シャイアン」('64)、ラルフ・ネルソンの「ソルジャー・ブルー」('71)とは正反対の世界だ。

 

 

ヘイルがアーネストの性病罹患の有無を尋ねたのは訳があり、オセージ族の女性と政略結婚をしろと言うことであった。唯々諾々と従うアーネスト。

スコセッシの映画ではしばしばこの手の凡庸を通り越した賢くない人物というのが主要人物となる。「グッド・フェローズ」('90)のレイ・リオッタ然り、「カジノ」('95)のデニーロ然り。あるいは「沈黙」(2006)の窪塚洋介もか。

ここでのアーネストもまたそうでヘイルの言いなりで次から次へと犯罪に手を染めて行く。オセージ族の女モリー(リリー・グラッドストーン、名演)と結婚してその親族を亡き者にする事で石油利権を握ろうという正しくパラサイト型犯罪である。

ディカプリオ、歯のメイクが凝っていて「ゴッドファーザー」('72)の時のブランドよろしく受け口になり、つい汚さに目が行ってしまう。見事に品の無さを演じている。

その「ゴッドファーザー」の「PARTII」('74)でドンを演じていたデニーロはここではキングと名乗り、あの義侠心溢れるドンとは大違いの狡猾な顔役を嬉々として演じている。

 

 

西部開拓時代と違うやり方で先住民族を掃討しようとするキングはやがて近代化の波の前に敗走を始める。

FBI長官フーヴァーの名前が出て来る。フーヴァーがFBI長官に就任したのは1924年とのこと。

フーヴァーの命を受けた司直の手がキングとアーネストに延びる。フーヴァーといえばイーストウッドの「J・エドガー」(2011)、演じていたのはディカプリオ!

 

 

捕らえられた二人、アーネストは獄中で「神の与えた罰」を受けようやく自らの愚かさに気が付く。「ザ・ホエール」(2022)でオスカーを手にしたブレンダン・フレイザーがファナティックな弁護士役で出て来て驚くが、この弁護士あんまり役に立たない。ここにもまたスコセッシ的無能者がまた一人。

 

 

スコセッシは言語を徹底的に映像に置き換え「物語り」に徹する。

故に3時間26分全く飽きる事がない。細部に物語があり、全体に大きなうねりを成す物語がある。そして最後、自らが出演して言葉で「語る」洒落っ気。

その語りの内容は苦々しいが。

 モリーの母が見る忌の際の幻影、梟のお告げ、燃える炎に照らされ影絵のように揺らめく人々。オセージ族の人々が大地にあやなすサークル、そして歌声。美しい映画的瞬間を刮目せよ。

マイケル・チミノ天国の門」(’80)以来の米国黒歴史大作、傑作。