映画和日乗

映画、食、人。西に東に。

                         

「TAR/ター」監督トッド・フィールド at TOHOシネマズ西宮OS

TÁR | Official Website | In Theaters and On Demand Now

 スマホの、LINEのようなSNSのチャットの画面から始まる。

スマホの奥に誰かいるようだがフォーカスがボケていてよくわからない。

またチャットの内容の意味も掴めない。今時珍しいオープニングでエンドロールのようなスタッフのクレジットが続く。「終わりの始まり」あるいは「終わりが始まり」の意味が込められているのか。

 ただならぬ緊張感が支配する。話し続ける指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)。経歴も知性もその言葉から迸り、キャメラはじっと見つめる。まるで私を見なさいと言わんばかりの自己主張とプライドが迫ってくる。それをワンカットで押し切るのでこの膨大な言葉と全身から発する圧力にまず降参。これは私だ、と私がリディア・ターだと。

 NY、ジュリアード音楽院の講義。リディアとネット脳的視野狭窄な学生との議論。ジュリアードでもこんななんだと案外なグローバル・スタンダード。しかしこれが後にリディアへの攻撃材料と繋がってしまう。リディアの知性を以ってしても抗えないこの世界の反知性。

 いかにもNY音楽界の社交からベルリンのリディアのプライベートへと舞台は移る。

同性のパートナー、南米系の養子の女の子。リディアのペルーでの活動がそうさせたのか。

 オーケストラによるレコーディングの為のオーディション、打ち合わせ。娘の学校問題。「私がリディア・ターだ」の自信と自己主張がそれらを淘汰していく。しかし淘汰は軋轢を生む。リディアの弱点、それは恋。

 淘汰による軋轢はベルリンの自宅に「不穏な音」として暗示される。神の啓示か戒めか。映画は中盤から彼女の見る悪夢、現実と地続きの幻想という内的な世界へと降りて行く。

 映画冒頭からメル・ブルックスジェリー・ゴールドスミスルキノ・ビスコンティと映画監督や映画音楽家の名前が飛び出すのは脚本兼任のフィールド監督の映画体験から来る記号なのだろうと思って観ていたが、リディアが紛れ込むベルリンのアパートの地下、水浸しの床と大きな黒い犬は、タルコフスキー「ストーカー」('79)の映画的記憶だろう。


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この後「地獄の黙示録」('79)のタイトルも出て来る。1964年生まれという事は私と同い年。観てきた映画が同じだ。

 「水に落ちた犬」となってしまったリディアはアジアに渡る。「地獄の黙示録」のロケ地(フィリピン)だと現地民の説明があるが、ルックはタイのようだ。実際バンコクでの撮影だったらしい。

 ラストは「ここからまた頂点へ」。鳥肌が立つ程心揺さぶられる、内的心象世界から外への渾身の旅立ち。

 全編音響は革新的な素晴らしさ。158分テンションが落ちない、観終わって心地よい興奮が後々まで体内に残る。それは新しい映画を観た喜び。

傑作、必見。