「鴻華園」が定休日でこちらへ。
「マドラスキッチン」は閉店したのか。
「吾作」は長らく存在は知ってはいたが入るのは始めて。
きつねうどん900円。出汁に尽きる。
出汁を水筒に入れてもらっている常連さんがいた。
「鴻華園」が定休日でこちらへ。
「マドラスキッチン」は閉店したのか。
「吾作」は長らく存在は知ってはいたが入るのは始めて。
きつねうどん900円。出汁に尽きる。
出汁を水筒に入れてもらっている常連さんがいた。
ラストに実際の記録映像による主人公グラヴィル・ウィンが登場、本作が実話に基づいている事が裏付けられる。
1962年のキューバ危機の水面下で起きていたスパイ合戦を描く。
ロンドンに住む東欧との取引があった一介の機械メーカー営業マン・ウィン(ベネディクト・カンバーバッチ)がCIAとMI6にスカウトされてソ連に潜入。
科学アカデミー協会のトップ、ペンコフスキー(メラーブ・ニニッセ)に接触、当初は口頭での意見交換だけが役目だったのが、キューバ危機が差し迫り機密書類の写しをロンドンに運ぶCourier(運び屋)となる。
ブルーの壁のウィンの家のキッチンにブルーの衣装を着た近所の奥さんのショットで意図的に色を消していることに気が付く。全くと言って良いほどグリーンはなく、殆どブルーの濃淡で表現され、赤とピンクはペンコフスキーの娘の衣装の色で強調される。
Netflixドラマで「ザ・スパイ エリ・コーエン」という作品がある。
www.netflix.com これもイスラエルのモサドがプロスパイではない民間人を利用してシリアに潜入させる話し(実話)で、本作「クーリエ」と展開が似ている。
潜入者は相手側の信用を得ることが第一、その結果友情すら芽生える。
ウィルと家族ぐるみで付き合うようになるペンコフスキー。招待されたボリショイバレエに感激するウィル、ペンコフスキーをロンドンのウエストエンドに招待する返礼。クラブで踊るペンコフスキー、同行している共産党員が眉を顰めるさりげないショット、これがのちの伏線になっている事に中盤気がつく。
文化と芸術が人間関係を表出させる格調高さが秀逸。
しかし、この手の話の常道だが「最後の仕事」が命取りになる。それは「エリ・コーエン」も「クーリエ」も同じだ。
スパイ活動がバレてからのカンバーバッチは鬼気迫る、ペンコフスキー役のニニッセも悲惨さを競わんばかりの入魂。素晴らしい俳優だ。
色の使い方もそうだが、開巻から終幕に至るまで大仰な音楽を使わずに不安感と緊張感を保持し続ける演出は見事。キャメラはあまり動かず、フィックスを多用しているがここぞというところで動くのも圧巻。
モスクワという設定のロケ地はチェコのプラハだとエンドロールで知る。
007を観た後で知るリアルなスパイの悲劇は胸に堪える。佳作、お勧め。
The Official James Bond 007 Website | No Time To Die JP
www.imdb.com 公開が延びに延び、待ちに待ったボンド25作目、公開初日に駆け付ける。
これからご覧になる方へのエチケットとして、ここで書けることは少ない。
書けないことの方が多い一方、書いておいた方が良いこともある。
ボンドの恋の相手は時代と共に変遷してきたが昨今のジェンダー論に則ったキャスティング(それ以上は多くを語らないでおく)だなという印象のマドレーヌ(レア・セドゥ)、イタリアのシックなホテルでの逢瀬はどこだろうと調べると
マテーラが『007』最新作のロケ地に 市民は見た『No time to Die』のバックステージ | イタリア好き
バジリカータ州マテーラというところ。
アストンマーチンのドライブの空撮に重なってあの「女王陛下の007」('69)の主題歌サッチモが歌う「We Have All The Time In The World」のインストバージョンが。
ってことは結婚したがもしや、という想像がつかなければならない。
すぐさまお約束のバリバリバリのアクション、アストンマーチンに仕込んだガトリング砲はマカロニ"ジャンゴ"ウェスタン由来というシャレか。イタリアだから。
ロンドンのM(レイフ・ファインズ)の部屋にチラリと映る日本風の版画、伏線になっている能面、後半に至って北◯領◯まで出て来て(瀬戸内の大久野島がモデルか?)、その中の基地の枯山水、悪党サフィン(レミ・マレック)は何故か日本趣味で道着を来ていて畳に正座。対するボンドまで‥(伏せておく)
この基地は「007は二度死ぬ」('64)の阿蘇山火口内の基地由来かな。
フクナガ監督、この映画の底流に流れるテーマを「血脈」としているのか、自身の名前に由来する国の文化をあちこちに刷り込んで来る。脚本・原案のクレジットに監督の名前があるのはこのシリーズでは初めてではないかと記憶する。
内容についてはこれ以上は書けない。キューバでボンドに助太刀するパロマ(アナ・デ・アルマス)こそが正統派ボンドガールであろう、が、しかし!ボンドとのお手合わせなしにあっさりと引き下がる辺りがイマ風(不満だ)。
ともかく。
エンディング曲で落涙。
そうか。
ここにこの歌の詩を貼っておく。
「女王陛下の007」の裏焼きだったか。
26作目の展開も想像がついた。
クリストファー・ノーランもそうだが、玄人筋はみんなこれが好き↓
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』2代目ボンド俳優が鑑賞、気になる感想は https://t.co/6wssg5PsB3 @the_river_jpから
— 白羽弥仁@あしやのきゅうしょく製作中 Mitsuhito Shiraha (@mittsshiraha) 2021年10月1日
この記事悲しいかな翻訳者が本編をみずに書いている為致命的な誤解をしている。レーゼンビーさんは主題歌ではなくエンディング曲で感動したはず。オレは泣いたよあの歌声
2019年度ベルリン国際映画祭で2冠。
まず、北マケドニアとは何処。
ja.wikipedia.org なるほど1990年独立か。
本作では荒涼としたうら寂しさが漂った街並みが映し出されている。
大学で歴史を学んだというペトルーニャ(ソリツァ・ヌシェヴァ)は職なし、引きこもり気味32歳。
母親は何かとまとわりついて来る共依存の気が強い。
父親は足に障害があるようで恐らくは無職だろう。一体どうやって生計を立てている一家なのか分からないが町全体の貧しさは痛いほど伝わって来る。
ぺトルーニャは縫製工場の就職面接で面接官に膝を触られながら「そそられねぇ」と罵倒される。セクハラ面接、どこの国も同じだ。
帰路、すれ違う裸の男達。彼等の行き先は川で、どうやら男衆の祭りのようだ。日本にもよくある女人禁制の祭り。
公現祭という本当にある祭りらしい。ギリシャ正教か。
ぺトルーニャ、自棄のやんぱちで川に飛び込む。どん詰まりの人生の自棄のやんぱち。
川底で掴んだ木製の十字架が騒動を巻き起こす。
剥き出しのミソジニー、北マケドニアは未知の国なれど、Twitterを眺めれば日本も変わらない女性嫌悪のメンテリティが溢れている。
即座に思い出したのが2018年のこの事件だ。
www.youtube.com ぺトルーニャは警察に逮捕されないのに拘束される。
彼女は自己顕示欲満々の女性のテレビレポーターからのインタビューも拒否、徹底抗戦に出る。
和を乱す者への田舎特有の陰湿な攻撃。これも万国共通なのか、胸に迫るものがある。
細やかな未来の幸せを望む女性と、因習にしがみつかないと自らの存在意義を見出せない男達の対比。いるよなぁニッポン大好きが存在意義の連中。
無責任で曖昧な態度を取る司教もまた、どこにでもいる汝の隣人である。
警察署の取り調べ室のレイアウトのシュール。そそられねぇと罵られた女が闘うことで美しくなったことがジャングルのような風景で顕在化する。
まる一昼夜拘束されるぺトルーニャだが結局法的には何の落ち度もないという決裁。
ラストは拍子抜けするも恋は因習もジェンダーをも超える、か。
その後祭りは改革されたのだろうか?
www.imdb.com 何と北米未公開らしい。理由はこちら↓ 日本は先行公開のようだ。
私にとっての水俣病についての記憶ははっきりしている。
本編でも登場するモノクロの記録映像は嘗てはテレビなどで頻繁にオンエアされていた。
また企業による有害物質の垂れ流しは何もチッソに限らない時代に生きていた。
光化学スモッグは日常だったし、森永によるヒ素ミルク中毒事件もその経緯が刻一刻報道がされていた時代だった。
だから冒頭の子守唄からユージン・スミスの撮った母娘の写真は瞬時に想起することが出来た。素晴らしい色彩と構図に息を呑む。
水俣に着いたばかりのユージン(ジョニー・デップ)の前に現れるアコーディオンの青年を照らす黄色い照明。
夜のアンバー、朝の障子越しの美しいブルー。撮影監督ブノワ・ドゥロームのキャリアを調べると「青いパパイヤの香り」('93)の人。宜なるかな。
素晴らしく詩的で力強いルック。
足の不自由なシゲル(青木柚)がユージンからカメラを受け取り、笑顔になる辺りから涙が止まらなくなる。
色恋抜きでアメリカ人がこんなに東洋人に優しい眼差しを向けたアメリカ映画が嘗てあっただろうか。
顔を撮るな、という患者に眼差しを撮らなければ(写真を見る者の)共感は得られないと言うユージンにパートナーのアイリーン(美波)は間を置かずに言葉を返す。「あなたが(患者に)共感するのよ」
冒頭の娘に子守唄を歌う姿は、後半、母の写真を撮る過程へと繋がる。
父親(浅野忠信、好演)から娘を撮るなと言われていたユージンはやっと彼等の共感を得る。その姿勢は鬼気迫り、宗教画の如き崇高さを湛える。
経済第一主義と人間としての倫理の分断は、ここで始まってここで終わってはいないことを映画は詩的な美しさのバランスを崩すギリギリで最後のエンドロールに至るまで訴える。
日本映画がこれを創れなかったのはその分断の片側に与しているからである。
傑作、必見。平日昼間に満席だった。
徒歩で10分ほど、西元町の「花吉」へ。
r.gnavi.co.jp店主の大西紀之さんは私の映画のファンということで、Blu-rayを届ける。
今日、さほど歳の変わらないちゅーねん男性に面と向かって「(作品が)好きです」と言われて、有難いやら、それを女の人に言われたいと、寂寥の秋
— 白羽弥仁@あしやのきゅうしょく製作中 Mitsuhito Shiraha (@mittsshiraha) 2021年9月26日