映画的日乗

映画、食、人。西に東に。

「ノルウェイの森」監督トラン・アン・ユン at 東宝関西支社試写室

原作・村上春樹。1987年の刊行当時一度読んだきりだったのだが、この映画化作品を観ている間に話しを思い出して行った。それほど原作に忠実でもある一方原作に登場する主要な人物以外のキャラクター、時代背景をまるで予告編のように目まぐるしくも短いカットで見せて行くことで実に見事に処理している。従って突撃隊(柄本時生)など一度もその渾名を呼ばれることもなく、エンドロールで確認出来るのみとなっている。
開巻、これまでに観たことがないような映像の質感に衝撃を受ける。人物の肌は脂が抜けていて夏のシーンでも汗を感じない涼やかさ、色使いも原色が感じられない。学食でワタナベ(松山ケンイチ)が食べる定食に添えられたトマトの色が非常に薄い赤であることから脱色していることが分る。一方、ワタナベの部屋や緑(水原希子)の部屋は赤や緑の強烈な主張を感じる(つまり、あの単行本上下刊の表紙の色)。これら全ての現実感も既視感も感じられないルックの支配が、観る者を心地よく物語の世界へと誘う。速いスピードで動き回り、時に駆けるようにすり抜けて行くキャメラワークも斬新で、スペックが気になって仕方がなかったがどうやらThomson Viperというデジタルキャメラとのこと。
さてその肝心な物語は村上春樹の文体そのものであり、映像と同じく汗も脂も感じられない。唐突な死の連続と性欲の発露の連続もその前後に情動や激情が描かれる訳ではない。人物達は感情を殆どあらわにすることなく、セックスのことを語っていても性的な匂いは全くしない。ただ一人直子(菊池凛子)を除いては。直子だけが自閉して行く過程で泣き、叫び、訴えそして彼女もまた死に至る。彼女の死だけが情動を感じさせる。
これら村上春樹が組み立てた世界は強靭で、監督トラン・アン・ユンは独自の解釈を挟まない、いや挟めないのか。よって映画的な感動に再構築することを意識的に封印している。直子の死を嘆いた直後にレイコ(霧島れいか)と寝て、更に緑に愛を告白するワタナベは、映像として示されると観る側の感傷と共感を拒否しているようにさえ見える。同じく村上春樹原作「風の歌を聴け」('81)のラストシーンの過剰な感傷はむしろ心地良かったものだ。
原作を読んでいないとこの映画をたとえ表層的にでも理解することは困難であろう。そして見終わると、果たして「ノルウェイの森」とはこういうことであったのかと反芻する楽しみのみが残る。
12月11日公開。
にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村