映画和日乗

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「生きる LIVING」監督オリヴァー・ハーマナス at TOHOシネマズ西宮OS

Living | Sony Pictures Classics

 黒澤明の名作「生きる」(1952)の脚本は、私にとっては映画脚本術の教科書である。本当にこれほど優れた教科書はないと敬服し、今でも自作の参考にする。

平凡な一役人が余命を知り、公園を作って死ぬ、というありきたりでそれこそ平凡な出来事を、構成とエピソードで魅せ切り、あまつさえ人生の意義を問いかける。

 小役人のささやかな人生を描く、という企画は1950年代の欧米の映画会社では歯牙にもかけられないだろう。

そこに正義も神の恩恵も慈愛に満ちた家族像もない。スーパーヒーローも大恋愛もない。キリスト教教条主義、あるいは旧約聖書的神の啓示が底流に流れていない限り、つくる意義は見出されない。

 だから世界中の観客が黒澤の「生きる」に触れた時、この東洋的利他主義の尊さに感嘆したのだ。そしてこの映画の主人公は死を前にしても神に縋らないのである。

これまで何度もハリウッドによるリメイクが囁かれて来た「生きる」。マーティン・スコセッシが名乗りを上げていたことがあったと記憶している。が、実際にはハリウッドではなく英国、監督は南アフリカ出身まだ40歳。なんと本作のオファーがあるまで「生きる」を観ていなかったそうだ。

 脚本をリライトしたカズオ・イシグロは驚くほどオリジナルに忠実であった。「憎んでいる時間はない」の台詞や、ゼンマイ仕掛けのウサギのオモチャもかたちを変えて生かされている。

 一方、オリジナル版にはない新入りの役人(オリバー・クリス)をイントロから登場させ、所謂「狂言回し」にしたのは秀逸。そしてオリジナル版ではミッド・ポイントに相当する「ハッピーバースデイの合唱」をオミットしている。本リメイク版がオリジナル版に比べて脂っこさが削ぎ落とされているとしたらその点であろう。ただ、それ故ウィリアムス課長(ビル・ナイ)の「覚醒」がやや唐突。

 なぜ今「Living」なのか。世界中があまりにも分断による憎悪と疑心に満ちている時代、「善」への渇望がこの映画を存在たらしめている気がしてならない。

 ウィリアムス課長が別の課で粘り強く企画案を通すべくその課の人々一人一人の目を見て握手し「有難う」と言葉をかける。デジタルとリモート、更にはコロナ禍によって失われた「触れる」というコミュニケーションを目の当たりにした時、私達は何か大切なものを喪失してしまったことを自覚させられる。

 平凡な善人による善行、いや現代に於いては非凡に属するであろう。そして王道型クラシックのエンドタイトル「The End」に忘れていた心の潤いを得る。佳作、お勧め。