息の長い映画監督は、その年齢によって境地というものが変化し、表現に影響する。
あれほどの活劇をつくった黒澤明が「乱」('85)で彼岸の境地へと至ったように。
北野武という説明を嫌ってショットにこだわり、オーヴァーアクトを排除することで才を放った監督が、縷縷と説明を披露し歌舞伎か香港アクションかというオーヴァーアクトを嬉々として展開させる。
ただ信長、光秀、秀吉、家康という「日本人の大好物」に手を染めるに当たっては、ロマンチシズムを徹底して排除した。死へのロマンを美学的に描く切腹を嘲り、忠君は衆道のカムフラージュではないかと提示する。
誰も信じられる人間などいないのは「アウトレイジ」シリーズの延長で、北野武のニヒリズムというよりどこかこの人の本質的な表現における核心なのだろう。
毛利元就につく僧侶(六平直政)が「仁義なき戦い 頂上作戦」('74)の小林旭が吠えた台詞と同じことを言う。そうか、「仁義なき戦い」こそはヤクザの仁義のロマンチシズムを破壊した先鞭だった。ヤクザの跡目争いは戦国時代とそう変わらなかったという考察、そしてそれは原日本人的なヒエラルキーの固定であり、現代の政治も社会も変わらないという事。現に「クビが飛ぶ」と言う言葉は未だしばしば使われるではないか。
音楽と撮影のスタッフが従来の北野作品から代わっている。撮影担当だった浜田毅氏と先日呑む機会があって、本作の技法について色々伺った。特に騎馬合戦の撮影については腐心したそうだ。
↓これに詳しいレポートが載っている
可笑しな事を言って笑わせるのに弓術に長けていると言うのはビートたけしの分身か。
蜂須賀小六役で頑張っていた仁科貴からは本作の公開が危ぶまれた時期があった事をきいていたので、何はともあれ公開されてお客が入っているのは良いことだ。
夥しい数の死体が転がるも湿っぽさは微塵もない。悲劇と喜劇は表裏一体、か。