滝本憲吾監督劇映画デビュー作。
原作あり↓
本作に登場するベーコンズという漫才コンビはオードリーがモデルらしい。
これが本人↓
本作の冒頭でツチヤ(岡山天音)が観ているテレビ番組はこのリンクに出ているNHKの番組がモデルらしい。
大阪、どこかの団地で母(片岡礼子)と暮らすツチヤ。
家に上がり込んでいいる母の愛人は言う「お前の息子、アホちゃうか」。
アホという乱暴な括りではなく、ASD(自閉スペクトラム症)ではないかという行動力学を示すツチヤ。
吉本興業がモデルの芸人養成所に出入りするも自作を盗作扱いされて激怒、ドロップアウトする。
この辺りまで彼が作り出す「笑い」というものが全く響かない。面白くもなんともないのだ。大喜利のネタもエスプリが効いてはいるものの、審査員が爆笑するほどではないのに爆笑しているのでずっと乗れずにいた。
が、途中からこれは徹底して「笑わせない」ことを戦略とした演出ではないかと思い直した。
それこそ滝本監督の師匠筋の井筒和幸監督がしばしば登場させていた吉本の漫才師達の繰り出す絶妙の間合いで笑わせる緩衝材のようなシークエンスを敢えて拒否しているのではないかと。
ツチヤは「笑いの創作」に神経をすり減らしながらも自作他作問わず、その創作物で笑うことはない。ひたすらにツチヤの心情に寄り添うという確信犯。
ツチヤはベーコンズ西寺(中野太賀)にスカウトされて東京へ。しかしそこでも人間関係が破綻して帰阪、かつてチャラチャラぶりが格好良かったピンク(菅田将暉)、ちょっと上手く進んでいた恋の相手ミカコ(松本穂香)に再会するも、ツチヤが東京に行っていた時間経過の間に彼らの人生は変化している。
よくあることで、チャラチャラしてられず愛想良しの居酒屋店員となっているピンク、ツチヤが帰って来るなど待っていられるはずもないミカコには新しい相手がいる。
齢を重ね、スピードを緩め社会に溶け込んでいく人生、それらを断じて受け入れられない「止まると死ぬ」ツチヤの対比が良い。
私のような関西人には「笑い」は「すぐそこにあるもの」だった。
他人の家から流れてくるテレビの音声は決まって漫才か新喜劇の音声、タクシーに乗ればラジオからは落語か音曲漫才、あるいは漫才師や落語家がDJをつとめていた。
それが近年メディアによってタイムパフォーマンスに重きを置いた「競技」にされてしまった。
漫才師はレーサーのようで、作家はコックピットのクルーだ。それらは私にはもうクスリとも可笑しくない。
ともあれラストは戦場に戻って行く「ハート・ロッカー」(2008)の地雷除去兵のようだ。