www.imdb.com ポーランド映画、原題は直訳では神の体、だが「聖体の祝日」の意。
映画が始まってフレームがシネスコ、少年院の作業室の縦横にぴったりと収まっていて、続く礼拝室もまたそうなっている。人物は横一列に立っている構図が多い。映画を観終わってから「聖体の祝日」の意味を調べるとこの監督がシネスコを選んで、こうした人物配置をある時点まで続けた意味が分かる。「最後の晩餐」に由来している事は想像に難くない。
チャップリンのサイレント時代の映画に「偽牧師」(1923)というのがある。
100chaplin.com これが元ネタであることも想像に難くない。
僧衣を着ていれば牧師、また白衣を着ていれば医者と思われて慕われたのが「ディア・ドクター」(2009)だった。「ちいさな独裁者」(2017)の将校の制服も然りで着ているもので人はいとも簡単に他人に規定される。
少年院で熱心に聖書を暗喩していたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は出所したら神学校に行き神父の資格を取りたいと願うが、犯罪歴があると神父にはなれない。つまり罪は赦されない。このチンピラは救われない。
ある村の教会に潜り込んだダニエルは自分がワルシャワの神学校出であると神父に嘘をつく。アル中の神父は治療を理由にダニエルに代理を頼む。
この村で数日前に起きた交通事故。村の実力者も、6人で車に乗っていて全員死亡した被害者も事故の真相を隠蔽していることが分かる。
犯罪を犯し、少年院に入ることで罪人の烙印を押されて神父になれない男。一方は罪を隠す事で神に仕えようとする人々。
罪というものは一体何処に在るものなのか。教会の懺悔室で悔い改めれば消えるのか。集団で隠せば神はそれを見ないのか。
神父になりきったダニエルは奇天烈な説教をするも村人は疑っている風でもない。が、彼と少年院で一緒だった男が村に闖入して物語が急転する。
そして交通事故の被害者が自分達の都合で隠蔽していた事実が一転する。そこに在ったもう一つの罪。
少年院でダニエルを指導していた神父が現れ、ダニエルを叱責する。しかしダニエルを代理に指名したアル中神父もまた素性がよく分からない人物であることが暗示される。ダニエルは教会の祭壇で上半身裸になり隠していた偽りを晒す。チンケな刺青が彼の本性を体現している。
ダニエルはまた罪に問われて少年院に戻る。
これまで頑なにブレなかったシネスコのフレームが突如暴れ出す。
彼は少年院の中で血まみれになりながら四角い欺瞞からはみ出そうとパンキッシュにもがく。何が罪かは神が決めるのではない、自分だと。そう言いたげな諦観に満ちた貌だった。