2016年に「コロニア」という映画があり、コロニア・ディグニダの存在をこの映画で知った。
またNetflixにはコロニア・ディグニダについてのドキュメンタリーもある。
後で観てみようと思う。
さて、本作は「コロニア」に比べると劇的な仕掛けは皆無だ。一方で、児童への性的虐待の描写は一歩踏み込んでいる。表現の変化は時代の変遷と共にある。
南米チリ。1989年、特待生でコロニアに入所する少年パブロ(サルヴァドール・インスンザ)の顔のアップから始まるが、そこからキャメラは頑迷なまでにフルショットで対象を捉える。カットも極力割らないことを旨としているようで、観客はやや遠目に何かが起きている世界を延々眺めることとなる。
その遠目の世界は常に不吉な予兆を孕む。施設の飼い犬を解き放つ女、自分の手の拳を口に突っ込み喚く男。黒いシールで覆われたサイの交尾の絵。一見バラバラのそれらのエピソードの羅列は退屈でもある。
しかし彼らはその行為によって「罰される」事となる。彼らが絶対服従するのは施設の主パウル(ハンス・ジシュラー)で、施設はナチス的価値観による彼パウルの理想の楽園であった。
パウルが遠目に眺める「統制された世界」は彼にとっての美しきフォルムだが、我々観客には極めて不気味で不快と映る。
それを常に物陰から覗いているのが少年パブロである。彼もまた常に遠目に覗いている。
パブロより先に入所してパウルの性欲の餌食になっている少年の常に虚ろな表情。
ジャニー喜多川が統一教会がプーチン的野心が北朝鮮がここにある。
ラスト、コロニア・ディグニダはそれを擁護した軍事政権崩壊後も続いていたという字幕。
どんよりした気分から抜け出せる事のないカタルシスなき結末は、図らずも世界の今と繋がっている。
キューブリックの「バリー・リンドン」('75)でも使われたヘンデルの「サラバンド」が繰り返し鳴り響く。ヘンデル、ナチスと検索してみると、↓こういう説が